未来の行方
*** 0 ***

「名は、なんという?」
 そう問われた時の衝撃は忘れない。
 はじめは、目の前のその美貌に。
 次いで、その瞳がまぎれもなく自分をとらえていることに。
 食い入るように見つめたまま、こみ上げる衝動に、知らず、その男に向かって彼女は手を伸ばしていた。

 神を象った彫像にも、これほどの神々しさはない、そう思わせるほどの容貌だった。整いすぎて、怜悧にさえ感じた。けれど、長い睫毛の下の、切れ長の眼に湛えられた光は穏やかだった。
 細い顎に、薄い唇。やわらかな金髪は、秀麗な細面を縁取ってわずかな灯りに冴え冴えとした輝きを返す。
 常人離れした美しさで、だから、人ではないのかもしれないと思った。
 人でないがゆえに、憶せず自分を見ることができる。
 しかし、彼女に応じるように差し出された手に、おずおずと触れた己の手は、確かに彼女に温もりを伝えた。
 信じられない思いだった。
 何も言えずにいる彼女に向かって、その男は双眸を細めた。
「手が冷え切っているな。何故こんな所に……。こちらへ来るといい」
 凍りついた唇から、ようやく、つぶやきが洩れた。
「……ひと、なのね……」
 人間が、私に話しかけている。恐れも、汚れも、ためらいすらない視線で。
 それは、まぎれもなく衝撃だった。
 その時から、彼は特別な存在になった。
 いつも。
 彼女が呪縛から解き放たれ、光の中へ戻っても。
 敵になってさえ。


*** 1 ***

(ついにここまで来たか)
 手綱を握る手に軽く力を込めて、エルウィンは馬の上から北進する光輝の軍勢を見やった。細長い人馬の列が、鬱蒼と茂った森林の中を行軍を続けている。
 決戦の時は、目の前に迫っていた。
 アルハザードを手にした皇帝ベルンハルトは、呪われた大陸の奥、ヴェルゼリア城に残された部隊を布陣させている。その地が、もう近い。
 ベルンハルトを倒し、アルハザードを封印すれば、ようやくこの長い戦いに終止符を打つことができる。けれど、ヴェルゼリアに待ち受けるのは、間違いなく青竜騎士団――最後まで生き残った、帝国が誇る最強の騎士部隊。激戦は明らかで、ゆえに誰もが、時が経つに連れ緊張感を高めていた。
 エルウィンも、また。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 戦いに近づくに連れて、頭を占めてゆく記憶があるのだ。
 それは声であったり、言葉であったり、もっとはっきり、表情や唇の動きだったりした。
『私には耐えられぬのだ。力のない女子供が、戦争の犠牲になることが』
『誰かが争いをなくさねばならぬ。そのためには、たとえ血塗られていようと、力に
よる統治が必要なのだ』
 どれも、同じひとりのものだ。この先で待ち受ける、青竜騎士団長、レオンという男の。
(やはり、戦わなければならないのか)
 魔剣アルハザードを目覚めさせ、闇の王子ボーゼルまで復活させて、闇の力による大陸統一を目指すレイガルド帝国――その、四天王のひとり。皇帝ベルンハルトに忠誠を誓う最強の騎士で、強敵として何度も斬り結んできた。彼に屠られた同士は数知れず、これまでの戦いで得た勝利は、どれも背筋が寒くなるくらいの紙一重だ。
 それでも、エルウィンはレオンを憎しみを抱くことはできなかった。むしろ、弱き民のために剣を取るのだと言う彼の、清廉な人となりを垣間みるたび、信頼に近い念すら覚えていた。
 違う出会い方をしていたら、と思うこともある。
 だから、できれば戦いたくないというのが本音だ。
(――だが、無理なんだろうな)
 敵が必ず悪人なら、これほど簡単な話はない。平和だって、とうに大陸全土を覆っているだろう。
 目指す境地は同じで、憎くもなく、悪い人間でもないのに、わかり合うことができない。だから戦いが起こる。今のこの現実がそうだ。
 理屈では確かに。
 だが、理屈で割り切れるなら始めから悩んでなどいない。
(それだけじゃない――)
「エルウィン」
 静かな声に、弾かれたようにエルウィンは目線を上げた。
 そばを進む馬車の窓から、天麻色の髪の少女が顔を覗かせていた。
「――ラーナ。なんだい?」
「風が出てきたわ。雨が来るかもしれない」
 ラーナは目線を斜め上に向ける。彼女にならって、エルウィンも空を見上げた。
木々に切り取られた空には、低い雲が垂れ込め始めていた。
「本当だ」
「あと2〜3時間というところね」
「この先は悪路が続いてる。今日は早めに野営したほうがいいかもしれないな」
 軍の先頭に立つシェリーに伝令を向かわせて、エルウィンは、馬車の中のラーナの横顔にじっと視線を注いだ。
 彼女がエルウィンたちの仲間に加わったのは、つい最近のことだ。
 幼い頃に闇の王子ボーゼルに連れ去られ、洗脳を受けて、これまで帝国とともに、エルウィンたちの行く手を遮ってきた。
(ラーナは、この戦いをどう感じているんだろう)
 呪縛が解けた今、ラーナは光輝の一員として懸命につとめを果たそうとしている。
けれど、ダークプリンセスであった頃、彼女は確かにレオンと、何かつながりを有しているようだった。
(レオンと戦うことに、ためらいはないんだろうか)
 あるのなら、自分は彼女に辛い戦いを強いることになる。
 聞くことはためらわれた。
 けれど、避けて通るわけにはいかなかった。早ければ明日にも、帝国軍と開戦するかもしれないのだ。
 エルウィンは馬車に馬を寄せた。
 その時、馴染みのある声が彼を呼んだ。
「エルウィンー」
 そちらに目をやると、ヘインが前方から、馬で近づいてくるところだった。
 この戦いに加わるまでは乗馬など無縁だった彼だが、シェリーに『男のくせに馬にも乗れないの?』とさんざん揶揄された挙げ句、むりやり鞍の後ろに二人乗りさせられ、ほうぼうから野次を飛ばされた微笑ましい経験のおかげで、すっかり乗馬の腕は上達している。
「シェリーが呼んでるよ。この先の道が土砂崩れで塞がってるんだって。どうする?」
「……わかった。すぐ行く」
 ひとつ息をついて、エルウィンは馬の横腹を軽く蹴った。

 土砂崩れを迂回してすぐに広がった平地で、軍はその日、早々に野営を張った。それからまもなく、大粒の雨が降り注ぎ、地を叩き始めた。雨は小一時間ほど、木々や大地を湿らせるとぴたりと止んだ。

 意を決して、エルウィンはラーナの天幕を訪ねた。そして彼女を、陣営から少し離れた、人気のない草地まで連れ出した。
 日は落ちて、辺りは暗い。陣営の方角に、篝火の明かりがちろちろと見える程度だ。時折、人声や物音が聞こえてくる。
「――いやなら、無理に答えてくれなくていいんだ。ただ、確かめておきたくて」
 考えた末、エルウィンはそう切り出した。ラーナは、神妙な顔つきで彼を見つめている。
「いいわ、言って」
「レオンの、ことなんだ」
 ラーナの視線が、強張ったのをエルウィンは感じた。
「いや、すまない、彼のことだけじゃないな」
 喉を上下させてから、向き直る。
「落ち着いて聞いて欲しいんだけど…過去のことについては、君には非はないと俺は思ってる。それはほかの皆も同じだ。でも、君にはその頃の記憶があるし、帝国には知っている人間も多いだろう。だから、戦うのは辛いんじゃないかと思ったんだ。
もっと早く気づくべきだったね、ごめん。……もしそうなら、エルラードでのことがあるし、少し遅いかもしれないけど」
 ひと息に言って、エルウィンはそこでやっと呼吸を入れた。
「君が良ければ、ヴェルゼリアでの戦い、俺たちに任せてくれていいから」
 返答には、若干の間があった。
 水気を含んだ風が吹き抜け、ふたりの髪を揺らしていく。
 ラーナは、つぐんでいた口を開いた。
「――大丈夫よ。心配いらないわ。ちゃんと、戦えるわ」
 口調はしっかりしていた。
「私は闇の巫女だもの。今は、アルハザードを封印することだけ考えてる。……でも、気にかけてくれて、ありがとう」
 エルウィンに向かって、かすかに微笑んでみせる。
 リアナほど明るくはなくとも、その笑顔は、とても人間らしいやわらかさと精彩を宿していた。
 ダークプリンセスだった頃の、氷人形のような雰囲気はもうどこにもない。
「――そうか」
 エルウィンは肩の力を抜いた。少し意外ではあったが、これで、不安のひとつが消えたことになる。
 そんな安堵感のためだったのだろう。あるいは、無意識のうちに心がこの場を占める空白を見抜いて、その隙間を埋めようとしたのかもしれない。
 それは、するりと口をついて出た。ずっと、聞きたいと思っていたことだった。
「――――レオンは、どんな奴だった?」
「…………」
 ラーナは、濡れた草を踏みしめて、ゆっくりと体の向きを変えた。
「……そうね」
 エルウィンに横顔を見せて、目を細める。
 囁きのような言葉が、唇から洩れた。
「――――――――優しい人」
 何故か、ほっとした。
「やっぱり、そうなんだな」
「――エルウィンも、そう思っていたの?」
 エルウィンは素直にうなずいた。
「きっといい奴だって、ずっと思ってた」
 ラーナの表情が、やわらかさを増した。ゆっくりと、散策でもするように草地に足を踏み出す。
「そう――誰よりも平和を望んでいて、人々の苦しみに心を傷めて――」
 濡れた草が、静かな足音を立てる。
「この戦いも本当は……。いつも……いつだって誰かのために――」
 言葉が途切れた。
 そっとラーナの顔を覗き込んで、エルウィンは目を見張った。少女の瞳から涙がこぼれ、頬を伝っていた。
 口元を押さえ、ラーナは彼から顔を背けた。
「ご……めんなさ……なんでも、なんでもないの」
 嗚咽混じりの声を残し、身をひるがえす。木立に紛れる後ろ姿を見送って、エルウィンは確信を抱いていた。
 ラーナもまた、戦いなど望んでいないのだと。


 天幕には戻らず、ラーナは人気のない木陰にうずくまった。
 口元を押さえた手から、嗚咽が洩れる。
 呪縛から解放され、本来の自分を取り戻し、在るべき光輝の中に戻ることを許されて――幸福だったのに、同時にその時から痛みを、彼女は抱えることになった。
(駄目よ、しっかりしなきゃ――)
 自分は闇の巫女だ。魔剣アルハザードは、必ず封じる。あの邪悪なる剣をこの世から消し去り、今度こそ使命を果たす。何者と相対することになっても、迷う余地なん
てない。
 そんなことはわかっている。
 しかしいくら言い聞かせても、痛みは消えなかった。
『ちゃんと、戦えるわ』
 嘘だった。
 レオン――彼と戦うことを思うたび、胸を刺すような苦しみがある。
 だって、彼はただひとり、ダークプリンセスだったラーナを人として扱ってくれた人間だったのだ。ためらわず声をかけ、彼女がまるでただの少女であるかのように、優しく、厳しく接してくれた。
 だから、すぐにその存在は特別になった。
 いつでも顔を見たかったし、声を聞きたかった。注意を引きつけたくて、いたずらにからんだりもした。
 呪縛で精神を歪められていた頃には、そんな自分の行為をただの興味ゆえだと思っていたが、本当の自分に戻った今はわかる。
 嬉しかったのだ。
 彼といると、彼を想うと、冷え切った心に灯がともるようだった。気が安らいだ。
だから、そばに居たかった。
 その気持ちは、今も変わらない。
 けれど。
 その想いを許さない、もうひとつの声がある。
(私は闇の巫女よ。今度こそ、使命を成すの。アルハザードは復活した。私が封印を解いた。ぐずぐずしてる暇なんてない)
 エルウィンたちは、ラーナを暖かく迎えてくれた。いたわり、励まし、闇の手に奪われた10年あまりを埋めようとしてくれた。自分は、敵として幾度も前に立ちふさがったのに。
 いくら感謝しても足りない。その恩に、今こそ報いるのだ。それが彼女ができる償いで、だから、感傷などに捕らわれている訳にはいかない。
 それに――――。

(それに、レオンも、私を敵だと思ってる)

 痛みが、増した。
 光輝へ身を投じたラーナを、レオンだってとっくに、敵とみなしている。絶対にそうだ。もう、何もかも変わったのだ。
 茂みが揺れる音がして、ラーナは顔を上げた。彼女の背後、10歩と離れていない場所に、エルウィンが立っていた。
 ラーナから視線を外し、赤い髪に手をやる。
「ゴ、ゴメン。ひとりにしておいた方がいいとは思ったんだけど、陣営のそばって言っても、敵地が近いし」
 英雄とも思えない少年のような仕草に、ラーナの心が温かいもので満たされていく。
 むりやり、笑顔を作った。
「――ありがとう」
 この人たちのために戦わなければ、と思う。エルウィンも、リアナも、みんな本当に自分を大切にしてくれる。
 大丈夫だ。
 立ち向かうことが、きっとできる。

 翌日。
 斥候隊が、ヴェルゼリア城を発見。青竜騎士団から成る騎馬部隊がすでに展開していることを告げた。
 決戦は、目前だった。


*** 2 ***

 ヴェルゼリア城の前は、騎馬隊で埋め尽くされていた。
 高々と掲げられた旗には、青竜騎士団の紋章が縫い取られている。
 そして、整然と並ぶ騎士たちの前に、レオンがいた。
 色鮮やかな青い甲冑が眼を射る。馬上で背筋を伸ばし、まっすぐに前方を見据える姿は、息を呑むほどに荘厳だった。
 エルウィンのどんな言葉も、説得も、レオンを止めることはできなかった。力によって平和をもたらそうとする者と、それを阻む者。もはや戦うしか道はなかった。
勝者のみが、己の信じる道を貫く権利を得るのだ。
 エルウィン率いる光輝の軍勢は、レオン率いる青竜騎士団と真正面からぶつかった。
 ――そして激戦の果てに騎士団を破り、ついに城内へ進入を果たした。
 目指すは、皇帝ただひとり。


 城の最奥、王の間で、彼らは皇帝ベルンハルトと相対した。
 最後の決戦の火蓋が、切って落とされた。
 エルウィン率いる主力部隊が、正面に立ちはだかるデーモンたちに猛然と挑みかかる。シェリー、キース、レスター率いる飛兵部隊も、脇を固める歩兵部隊に肉薄する。浴びせかけられるバリスタの矢の雨に、ひるむことなく突き進んだ。
 兵力を減じながらも、彼らは着実にそれ以上の帝国の兵力を削いでいく。
 分は、明らかに光輝の軍勢にあった。
(これで、最後だ)
 先頭切って剣を振るい、エルウィンは視界にベルンハルトを捕らえた。
 平和のために力を欲し、強大なカリスマで帝国を起こし、大国へとのし上げ、闇の
王子ボーゼルさえ退けてみせた傭兵出身の王。
 彼を負かし、アルハザードを葬り去る。そして、誰も憎まずにいられる時代を作る。
 その時だった。
「後背から、青竜騎士団が接近! レオンの姿もあります!」
 背後から上がった声に、エルウィンは愕然とした。
(後方には、ラーナが――!)


 青竜騎士団だ、という叫びを、ラーナは震えとともに聞いた。
 兵の列が乱れる。狼狽の声が、波を打って広がってくる。
 青竜騎士団の残存騎兵が、光輝の軍の後背から襲って来たのだ。
 振り返って、ラーナの全身に緊張が走った。
 迫り来る騎馬の先陣に、エルウィンによって深手を負ったはずの、レオンがいた。
 兵の作る壁が揺らぎ、崩れた。そこから青竜騎兵がなだれ込んでくる。
「いけない!」
 すくんだように動かない足を叱咤して、ラーナは飛び出した。突進してくる騎兵に向かって、両手を広げて立ちはだかる。
「ここは通さないわ」
「――ラーナか」
 ほんの、ほんのわずかだけ眉を曇らせ、レオンは馬を止めた。わずかに息が荒い。
重傷の身を押して馬を駆っているのだ。
 青い瞳が、ラーナを射る。
 彼から目を逸らさずにいるには、膨大な精神の力を要した。
「どけ」
「いやよ!」
 吐き出すように、叫んだ。声の震えには、気づかれなかったろうと思う。
「通りたければ私を斬って。貴方を裏切ったのだもの、殺されても恨んだりしない。
でも、私は闇の巫女よ。けして退かないわ!」
 奥歯を噛みしめて、レオンと睨み合う。視線に、体が灼かれるようだった。こんな所で、こんな形で対峙する、忌避を通り越した耐え難い苦痛に、ラーナは耐えた。
 永遠のように感じられたけれど、実際は数秒程度だったのだろう。
 レオンが口を開いた。場違いなほど、穏やかな声音だった。
「貴女は、私を裏切ってなどいない」
 ラーナは目を見張った。
 戦の喧騒も、耳に入らなかった。
(なに……? 今、なんて……)
 聞き間違いでも、幻聴でもない。押さえたような、レオンの静かな声が、ラーナの意識に流れ込んでくる。
「そこが、貴女が本来いるべき場所だった。貴女は光輝の人間だ。ボーゼルにさえ、捕らわれていなければ……」
 愕然とするラーナの前で、レオンの瞳に、強い決意の光がよぎった。
「だが、許してくれ。私は――」
 レオンが無言で馬の腹を蹴った。左手に、抜き身の剣。
 突進してくる騎馬を、ラーナは呆然と見つめる。
 動けなかった。
 馬蹄の轟きが耳を打ち、突き進んで来るレオンの姿が迫り、眼前に、ひるがえった剣の鈍色が――
 次の瞬間、全身をすさまじい衝撃が襲った。

 薄れていく意識の縁で、ラーナはひとつの記憶を掘り起こしていた。
 ずっと前、あれはレオンが、光の巫女リアナの確保を命じられ、辺境の村へ赴いた時のことだ。
 偶然村に居合わせた、その頃は名もない剣士のエルウィンと、ヘインによって任務は妨害され、レオンは退いた。
 その彼の元へ、ダークプリンセスだった自分が出掛けて行ったのは、何も帰還命令を伝えるためばかりではなかった。使い走りなら、伝令にさせればいいことだ。
 単純に、少し気を引かれたのだ。あのレオンが任務を失敗したというし、光の巫女は自分の双子の妹だというし。それに、有象無象がひしめく人間の世界というものも
覗いてみたかったし。
 だから、先触れもなく彼を訪ねた。
 レオンは天幕にいた。
「ダークプリンセス。なぜ貴女が……?」
 少し驚いた様子に、まずは満足した。
「行きずりの男に邪魔されたんですって? レオン団長も、目的が女の拉致じゃ腕が鈍るようね。それとも、たまには手応えのある人間もいるってことかしら?」
 机の上には、地図と、作戦立案などで戦術をシミュレートするのに使う駒が広げられていた。歩み寄って、ラーナは駒のひとつを手に取る。敵勢力を表す黒い駒だ。
「皮肉を言いに来たのか?」
 レオンは椅子に腰かけている。机に寄り掛かって彼に向き直り、ラーナは唇を尖らせた。
「そうよ。せっかく妹に会えるのを心待ちにしてたのに」
「…………」
「ねぇ、どんな娘だった? 双子だそうね。私と似ている…?」
「……顔かたちならば、よく似ていた」
 喉の奥で、ラーナは笑った。
「中身は違うってことね。想像はつくわ。あててみましょうか。清らかではかなげで、汚れ知らずで、さぞかしキレイな弱々しい巫女さま。違う? 神殿に仕えているくらいだもの」
 レオンは無言だ。
 おや、と内心で眉をひそめた。彼にしては珍しく、さっきから歯切れが悪い。
 ラーナは机上に顔を戻すと、地図の上に、適当に駒を並べた。自勢力の白い駒と、黒い駒を向かい合わせる。
「まあ、どうでもいいわ。妹なんて、私には関係ないもの」
 黒い駒に、細い人差し指をあてる。
「私が光の巫女だったら、その娘のようになっていたかもしれないのね。神を崇めて、弱者のために祈る――ぞっとするわ」
 爪の先で弾いて、倒した。
「それは、本心か?」
 振り返って、思いがけず、真摯な視線とぶつかった。ラーナは小首を傾げる。それから、微笑んだ。
「決まっているじゃないの」
 ゆっくりとした足取りでレオンに近づくと、いたずらっぽく顔を覗き込む。
「ここは心地いいわ。誰も私たちにかなわない。貴方もいるしね」
 レオンは、何も言わなかった。ただ固い表情で、どこかを睨んでいた。

 ――その時は、何も感じなかった。何を気にしているのかと、引っかかっただけだった。
 けれど、やっと答えを得た。
 レオンはずっと、心を痛めていたのだ。闇に囚われ、心根も意志もすべてねじ曲げられ、それを自身の本心だと疑わないラーナを。アルハザードを完全復活させるためにはラーナの力が必須だと知っていてなお、ダークプリンセスとして祭り上げられている彼女を、憐れんでいたのだ。
『そこが、貴女が本来いるべき場所だった』
 ずっと、そう思っていたのだ。
 今、理解できた。


 ゆっくりと感覚が戻っていく。ラーナは、誰かに抱えられているのを感じた。
 瞼を開ける。リアナの顔が、真近にあった。
「姉さん!? しっかりして、苦しくない?」
 そこは王の間で、まだ戦闘は終わっていなかった。その混乱の中を、リアナが彼女を戦火から遠ざけようとしている。
「わた、し……。レオン…青竜騎士団…は……」
「大丈夫。今、エルウィンたちが押さえているわ。姉さんはここから離れて、安全な所へ」
 ラーナは身じろぎした。どこが痛むのかわからないくらい、全身が痛む。けれど、生きている。苦痛をこらえて首を動かすと、自分の体のどこにも、傷はなかった。確かに斬られたと思ったのに。
(そうだ――)
 ラーナは記憶をたぐり寄せる。眼前に迫った、レオンの剣――鈍い鉄の色をしていた。
 知っている。彼の愛剣は、わずかに沿った片刃の剣で、だから背の部分は鉄の色をしている。
 その、刃のない側を、レオンは彼女に向けたのだ。
 殺さないために。
「駄…目、リアナ……」
 戦場の外へ連れ出そうとする妹の手を、ラーナは止めた。
「姉さん?」
「私は、ここにいなくては」
 光輝に戻ることを望んでくれた人、敵である自分を生かしてくれた人がいる。敵ではあっても、その戦いを最後まで見届けなければ。
「お願い、リアナ。私、最後までここにいる」
「そんな、危ないわ」
「それでも、離れるわけにはいかないの」
 ややあって、リアナはうなずいた。
「わかったわ。そうね、私たちは光輝の巫女だものね」
「危なくなったら、リアナ、あなたは逃げて」
 答えず、双子の妹はラーナの肩に回した手に力を込めた。

 ラーナは半身を起こして、戦いを見据えた。
 エグベルトが斃れた。
 レオンは、エルウィンに敗れた。
 帝王もまた。
 その時までは、まだラーナは、すべてを受け止めるつもりでいた。

 そして、その瞬間を、ラーナは見た。

「私もお供させて下さい、陛下!」
 玉座からふくらむ、黒い力。
 アルハザードから解き放たれた魔力が、時空を歪め、力場をねじ切って、黒い触手を広げる。
 荒れ狂う闇の波動は、魔剣を手にするベルンハルトを包み込み、さらに貪欲に手を伸ばした。
 その先には、今や敗残の将となった騎士の姿。ひずみが及んで、彼の周囲の景色が歪む。
 ラーナの正気が弾けた。
 何も、わからなかった。
「姉さん……! 姉さん!?」
 リアナの声も届かない。
 立ち上がった体の内に、強い魔力が生じる。魔術を編み上げる時の高揚感に似た感覚が意識を埋め尽くす。けれど彼女には何も及ばず、代わりに魔力は青き騎士に結晶した。
 レオンを取り巻き、生まれた力場が歪みを遮断した。光の波が、彼を守るように、あるいは閉じこめるように広がって、闇を断ち切り、触手をねじ切る。
 その間にも闇の魔剣は力の奔流をまき散らし、深く開いた次元のひずみがベルンハルトの体を飲み込んだ。
「陛下!!」
 叫びが耳朶を打つ。レオンの声だと感じたが、その声音の悲痛さを認識する余裕はラーナにはなかった。
 対極にあるふたつの力がせめぎ合うたび、空気が震え、激しいスパークが王の間に散る。アルハザードと競り合うだけの力が、強大な負荷となってラーナにのしかかる。身の内で荒れ狂う魔力に、意識を手放さずにいるのが精一杯で、その最後の意識で、彼だけを捕らえていた。
 ――――――レオン。
 突如として、重圧が消えた。
 出現した時と同様、闇の力は急速に退いた。波が引くように弱まり、引き裂かれた次元の亀裂が閉じてゆく。エネルギーの奔流は拡散して空に溶け、闇も光も消え失せた。
 あとには静寂だけが残った。
 誰も、言葉もなかった。ラーナ自身も。
 ただ、磨耗した感覚が、一点に注がれる。
 レオンの姿がそこにあった。床に膝をついて、空になった玉座と、そばに転がるアルハザードを呆然と見つめている。その、強張った頬の線。瞳の色。
 ――――生きてる。
 泣きたいほどの嬉しさに、ラーナは歩み寄った。
 ――――生きている。
 彼が。
 そっと、手を伸ばす。
 だが、触れることはできなかった。
 振り向いたレオンの視線が、ラーナを射抜く。
 それは、物理的な衝撃となって、彼女を打ちのめした。
 動くことができなかった。かと言って目をそらすこともできない。
 その一瞬で、命がけの自分の行いを後悔したくなるほどの、叩きつけるようなまなざしだった。
 目の前からレオンが消え、エルウィンが消え、ジェシカが消え。リアナとヘインが、手を貸して体を支えてくれても。ラーナはその場で、凍りついたように動けなかった。

 戦いは終わった。ベルンハルトは斃れ、帝国四天王もことごとくが敗れた。闇の勢力は退けられ、アルハザードはラングリッサーとともに永き眠りについた。
 新たな時代が、幕開けを待っていた。


*** 3 ***

 エルウィンは、ヴェルゼリア城のテラスに出た。見渡す限りに荒涼とした景色が広がり、乾いた風が、むきだしの髪をなでていく。
「エルウィン」
 声に振り向くと、ヘインがテラスに出てくるところだった。
「どうしたの? こんなとこで。何かある?」
「いや……別に何でもないんだ。ただ…」
 エルウィンはなんとなく言葉を濁す。
「……いろいろ大変だったもんね」
 ヘインは歩み寄って来ると、エルウィンと肩を並べて城の外を眺める。
 帝国軍を破ってから、3日。光輝の軍勢は、まだヴェルゼリアに留まっていた。勝利したとはいえ自軍の損害も甚大で、負傷兵や物資糧食の問題から、容易に軍を動かせなかったのである。先にキース、レスター、ジェシカにエルサリア大陸へ戻ってもらい、彼らの手配で増援が到着するまで、エルウィンたちは、破損の少ないヴェルゼリア城の一部を利用する形で逗留を続けていた。
「オイラもすっかりくたびれちゃったよ」
 ヘインは空に向かってのびをした。彼は治癒魔法に加え、意外と器用なことも得意で、怪我人の治療に雑用にと陣営を駆け回っている。戦いが終わった直後から、小柄な体の割に驚くほどの元気ぶりを発揮していたが、さすがに連日となると疲れが窺える。
「早く帰ってふかふかのベッドで眠りたいよ。エルウィンもだろ?」
「ああ、そうだな」
「それからあったかいシチューと、炙り肉と――ずっと糧食ばっかりだもん。飽きちゃったよ」
 エルウィンは笑みをこぼした。この友人の明るさは、不思議とひとを気楽にさせる。
 しかしその笑みも、すぐにぎこちないものに変わり、やがて消えた。
「――――レオンは?」
 ヘインは、小さく首を振った。彼の顔からも、いつのまにか気楽さは消えている。
「相変わらずだよ。食事にも手をつけないんだって」
「…………」
 ふたりは口をつぐみ、しばらく黙っていた。
 ただひとりの帝国軍の生き残りであるレオンを、エルウィンたちは、光輝へ協力してくれるよう説得した。けれどどうしても、レオンは聞き入れようとしなかった。帝国騎士としての立場を貫き、かたくななまでに彼らを拒んだ。そのため今は、虜囚として、城の地下にあった獄舎につながれている。何を言っても耳を貸さず、やがて反応すら返さなくなった。暗い牢で、死んだように身じろぎひとつしない。
 ヘインはテラスの手摺に背をつけると、ずるずるとその場に座り込んだ。
「ずっとこのままなのかな」
 小動物を思わせるしぐさで空を仰ぐ。
「やだなぁ、そんなの……せっかく助かったのに……」
 エルウィンも、同じ気持ちだった。
 立場上、捕虜の扱いをしてはいるが、彼を惜しむ声は多い。敵としては恐るべき武将だが、誠実で、尊敬に足る人となりは誰もが知るところだ。それが、青竜騎士団長レオンという男だった。
 それでも、このまま非協力の態度が続くなら、やはり敵将として断罪せざるを得なくなる。
 エルウィンの脳裏を、獄舎でのレオンの顔がよぎった。
 感情の窺えない、静かな、そして無気力な横顔だった。敗北してさえ揺らがなかった存在感など微塵もなく、今にも消えてしまいそうだった。それなのに、拒絶の意志だけははっきりと感じられた。彼らのどんな言葉も届かず、そう悟ってから、エルウィンは獄舎に近づいていない。
 レイガルド帝国の残党処理、諸国の統合、なお跳梁する魔族の掃討、戦乱で被害を受けた人民の救済と、各地の再建――なすべきことは山のようにある。限りない諸問題に向き合うにあたって、彼という味方ができればどんなにか心強いだろう。しかし、そんな理屈ではなく、エルウィンはレオンに生きてほしかった。
(やはり、敵にしかなれないのか……)
 胸苦しさに息を吐いた時、ヘインがぽつりとつぶやいた。
「ラーナだって、可哀想だよ」
 エルウィンは、親友を見下ろす。
「ジェシカ様が言ってた。アルハザードの力をはね返すなんて、たとえ闇の巫女であっても考えられないことだって。なのにラーナはやったんだ。それだけ、レオンを助けたかったんだよ」
「ああ――」
 ラーナは彼を救い、結果として彼から帝国を、ベルンハルトを奪った。
 それは、確かに罪だったのかもしれない。
 しかし、黙って見ていれば良かったとは、エルウィンは思わない。
「そうに決まってる」
「なのに、これじゃあ……」
「ラーナは、どうしてる?」
「負傷者の手当に当たってる。体も回復したし、すごく頑張ってるよ。……でも、脇目もふらないって感じ。まるで、何も考えたくないみたいに」
「……そうか」
「せっかく戦争が終わったのに。敵とか味方とか、言わなくていいはずなのに」
「…………」
 エルウィンもまた、空を見上げる。
 日が傾き、薄闇が忍び寄ろうとしていた。


 交替の看護兵に強く言われて、ようやく、ラーナは休むために自分の割り当てられた部屋へ向かった。その足取りはしっかりしている。
 この3日間、ラーナは昼夜を押して傷病者の治療に奔走していた。治癒魔法のほか、外科や薬学にも通じる彼女に、できることはいくらでもあった。体が空けば、洗濯も炊き出しもやった。体が動かなくなるまで働き、わずかな時間沈み込むように眠り、また起きて働く。考える暇を作らず、誰かの怪我の具合や、次に行う治療や、薬や、替えの包帯のことでつねに頭をいっぱいにした。
 思い出さずにいるには、それしかなかった。
 それでも、限界は必ず来る。
 部屋に入り、扉を閉め、いきなりラーナはその場にしゃがみこんだ。
 今が、その限界だった。ふと立ち止まってしまった時、暇を見て食事をとる時、それにこうして休む前後。思考に余白ができるたび、まざまざと蘇る記憶。
 それはあの時の、アルハザードの魔力を断った時のレオンのまなざしだ。怒りでもなく、冷たくもなく、ただ、衝撃を受けたような、信じられないような。
 あんな顔はされたことがなかった。
 思い起こしてしまうたび、ラーナの胸を強烈な痛みが苛む。
 あの奇跡――奇跡には違いない――を、ラーナは意識して起こしたわけではなかった。ただ、レオンが闇に連れ去られてしまうと感じた時、すさまじい衝動が奥底から突き上げた。
 こんな形で終わらせたくなかった。
 だって彼は、ラーナにたくさんのものをくれた。
 強さと引き替えに、ぬくもりを手放さなければならなかった彼女を、独りにさせないでくれた。おそらく、彼自身も知らないだろうけれど。
 死なせたくなくて、だから衝動に身を任せた。でも。
(私、レオンを裏切った……)
 帝国のために生き、帝国のために死ぬことが彼の意志で、誇りで、存在理由だったのに。力による平和という悲願を、果たせなかった彼には、あれが唯一帝国騎士として死ねる局面だったのに。そのレオンから、死に場所すら奪った。おかげで彼は、自害もできずに光輝の虜囚となっている。
 自分を見た時のレオンの胸の内が、今なら痛いほどわかる。彼は驚愕していたのだ。ほかの誰でもなく、ラーナが自分の生きてきた証を踏みにじったのだから。彼にとっては、あり得ないことだった。それが、彼なりの彼女への信頼で、けれどラーナは裏切った。
 あんな顔はさせたことがなかった。
 自分勝手な望みで、彼を傷つけた。光輝の中で生きられることを、誰よりも願ってくれた人を。
 これ以上会わせる顔がなかった。見限られた。嫌われた。絶対に。今度こそ、レオンは自分を見てはくれまい。
 エルウィンが彼を救いたがっているけれど、自分は彼のためには、もう何もできない。その資格がない。
 だから何もしないと決めた。どんな望みも願いも、所詮、自分の都合でしかないのだから。
 毛布につっぷして、ラーナは泣きながら眠った。
 消えてしまいたいと思った。
 そして、まどろみと深い眠りを交互に繰り替えし、夢とも何ともつかないものを幾度も見て、起きているのか寝ているのか判然としない状態に陥って。
 その挙げ句に、思いは叶った。
 気がついた時、ラーナは真っ暗な闇と静寂の中にひとりで立っていた。
 いや、違う。
 ラーナは眼を凝らす。
 目の前に、もうひとり、自分が居た。
 天麻色の髪も、琥珀色の瞳も、姿も何もかもが同じ。それでも彼女にはわかった。
 ――ダークプリンセス。
 正面に立つ、かつての彼女が、ラーナに向かって冷たい笑みを浮かべる。自分とも
リアナとも似つかない、酷薄な微笑だった。
 そして、立ちすくむラーナに、ダークプリンセスは薄い唇を開く。
『馬鹿ね』
 嘲りを含んだ声だった。
『取り戻したところで、使い方も知らないなんて』
 いぶかしげに、ラーナは眉をひそめる。それしかできない。
 ダークプリンセスは、短く言った。
『心』
「ここ…ろ……?」
 能なしのように、それだけ繰り返す。
『闇を心に住まわせていた時のほうが、楽だったでしょう? 迷いなんてなかった。
思うまま、嫌いなものを壊して、欲しいものを手に入れることができた』
 ダークプリンセスが、腕を伸ばした。ラーナの両頬を包んだ手は、冷たかった。
『私は、嫌いなものも欲しいものもわかってる』
 鼻先で、自分と同じ顔が嫣然と笑む。
『あなたがいらないのなら、レオンは私がもらうわ』
 すっと、波が引いていくような感覚が胸の内に生まれる。それは、喪失感だろうか。
『諦めたんでしょう? もう、疲れてしまったのよね。私なら諦めたりしない。彼とずっといっしょに生きるの』
 できるだろう――そう、自然に思えた。
 だって彼とともにいたのは、ダークプリンセスのほうだった。呪縛をなくしたラーナは、彼の敵にしかなれなかった。
『私が彼の支えになる。邪魔なものはすべて消すの。だからあなたは安心して、消えて』
 触れられた肌が、体温を奪われるように冷えていく。顔から首、そして胸、両肩。
体の上半分が、もう他人のもののように冷たい。もうすぐ全身がそうなる。
 寒かった。
 寒くて、とても寒くて、だから遠くなりかけた意識の奥で、前にもこんなことが
あった、と漠然と思い出された。
 あれはいつだったろう。
 何だったのだろう。
 でも、確か。寒いだけではなくて。
 あの時は。

 彼女に応じるように差し出された手に、おずおずと触れた自分の手が、伝えてきた、確かな温もり。
 そして、声が――
『手が冷え切っている』
『何故こんな所に……』
『こちらへ来るといい』
 それだけで充分だった。生きていけると思った。
 水の底から浮かび上がるように、すべての意識が覚醒した。
 冷気が、消失した。


 ラーナは目を開けた。辺りは暗く、けれどそこは確かに彼女の部屋だった。体の下には毛布があり、自分の手がしわくちゃにつかんでいる。見回しても、そこには彼女しかいなかった。
 その時には、悟っていた。
 あれはラーナに残っていた、呪縛のかけらだ。それがダークプリンセスの自我となって、目覚めたのだ。
 彼女が弱みを見せたから。
 ラーナは部屋を出た。
 獄舎を目指した。行ったことはなくても、場所は確かめてあった。知識だけの道順を、まっすぐに辿った。
 また、馬鹿なことをするところだった。取り返しのつかないうえに、卑怯な真似をするところだった。
 逃げてどうする。
 逃げて隠れてどうするのだ。
 彼の意志を無視して、むりやりこの世に留めたのは自分なのに。
(もう、逃げない)
 決着をつける。
 覚悟を決めるのだ。闇も光も後ろ盾もない未来を、心ひとつで生きていくための。
 怯えや後悔や自己嫌悪や、後ろ向きな感情を全部捨てれば、後に残ったのはなけなしの勇気だけだった。
 地下の獄舎の、松明がわずかな明かりを投げかけるのみの、たったひとつだけ使われている牢の前に立って。
 暗がりの、奥。
 レオンは、壁に作りつけられた寝台の上にいた。目を閉じて背中を壁に寄りかからせている。
 これほど彼が小さく見えたのは初めてだった。
 これほど近寄り難く思えたのは、2度目だった。
 勇気がくじけた。
「……………………ごめんなさい…………」
 やっと言えたのはそれだけだった。山と積み上げた言葉はすべて吹き飛んでしまった。鉄格子を握りしめて、ラーナは嗚咽を漏らした。


 すすり泣きが、冷たい空気を満たしている。
 離れて以来、会う彼女は、いつも泣いている気がする。
 レオンは、ゆっくりと目を開けた。
 気がするのではなく、自分がそうさせているのだと、自覚がある。

 サルラス領近くの辺境で初めてリアナを見た時、少なからず覚えた衝撃は今でも印象に残っている。
 同じ顔をしていながら、光の巫女は、容姿以外はラーナとあまりに違っていた。
 与えられるべきものを与えられ、愛されて、人を気遣うことも、笑うことも、泣くことも当たり前のようにできる、そんな少女だった。村人に類が及ぶのを避け、自ら帝国に身を差し出した。
 もし、ラーナがボーゼルに連れさらわれていなければ。そう思わずにおれなかった。
 淡泊で、気紛れで、光を憎み、人の命を塵ほどにも思わないダークプリンセス。彼女も、リアナのように笑うことができたのか。
 だから、ラーナが自我を取り戻し、光輝の末裔に迎えられたと知った時には、安堵を覚えた。
 今度こそ、自分の道を歩んで欲しかった。
 その心に、偽りはなかったはずなのに。
(苦しめているのは、私か)
 胸のどこかが痛んだ。
 傷つけることしかできない、自分がここにいる。
 ――牢の中で最初は、狂おしいほどの絶望を抱えているしかなかった。
 命を賭して選んだ道で、だから敗北は死を意味し、生き長らえるならそれは勝ち得た末でのはずだった。
 負けて、生きているなど考えられなかった。
 死ぬことも生きることもできない煩悶に、何もかもを閉ざした。息をするのも辛かった。ただひとり残された苦痛にあがいて、その苦しみにまでいつしか慣れてしまって、そんな自分にことさら嫌悪を募らせるうちに。
 気づき始めていた。生き長らえている理由に。
 いつだって、命を断てばよかったのだ。ベルンハルトの元へは行けなくとも、犬死ににすらならなくとも、たとえ今からでも。心臓が脈打っているだけの屍であり続けるくらいなら。
 それをしなかった理由。
(あの、少女が)
 彼女によって命を拾った事実が、彼を今生につなぎとめている。


「――――――――すまない」
 嗚咽の掠れた、荒い息づかいだけを繰り返しながら、ラーナはその声を、聞いた。
 恐る恐る顔を上げて、視線が、レオンのそれと合わさった。
 彼が、ラーナを見ていた。
「私が言えることではないのはわかっている。だが、泣かないでくれ」
 信じられなかった。
「……もう、許してもらえないと、思った」
 か細い声を、ようやく絞り出した。
「貴女を、憎むことはできない」
 寝台に手をつき、レオンが立ち上がった。歩み寄り、鉄格子ごしに彼女の前に立つ。
 傷だらけだった。当たり前だ、戦いからまだ3日しか経っていない。食事にも一切手を触れていないと聞いた。その足で、歩いてきてくれたことが、彼女に勇気を与える。
「――私、貴方に幸せになってほしい」
 レオンが、虚を突かれたように目を見開いた。
「お願い。争いをなくすために力を貸して。エルウィンも、貴方を必要としている
わ。きっと――」
「それは……できない」
 レオンが視線を外した。
「私は、彼に勝つことができなかった」
「でも、信じた世界は同じよ。方法が違っただけで」
「私は帝国の騎士だ」
 静かだが、強い口調にラーナは黙る。
「多くの者が騎士である私を信じ、ついてきてくれた。その彼らに、私は報いることができなかった」
 そうだ、とラーナは、ダークプリンセスの頃を振り返る。
 責任感が強くて、偽りのない、どんな現実からも目を逸らさない人だった。そんな彼に、部下の信頼は否応なしに集まった。誰もが命を預けて彼につき従っていた。
 彼らを、ダークプリンセスは外から見ていただけだったけれど、それでもよくわかっていた。
 考えながら、言葉を紡いだ。
「私、貴方からベルンハルトを奪って、死にたくなるくらい後悔した。でも、あの時何もしなかったら――あのまま見送っていたら、本当に死んでしまうほど後悔したと思う」
「…………」
「貴方を慕った人たちはみな、貴方の先に理想の世界を見ていたの。誰も、新しい時代を願ってた」
 強くなければ生き残れない時代にあって、強いだけではないレオンは、誰にとっても太陽のような存在だった。それを、知っている。
「今からでも彼らに報いることはできるはずだわ。貴方は生きているんだもの。彼らの代わりに――」
 ラーナは言葉を切った。レオンが、唇を噛んで、うつむいていた。
 この時ほんの少し、ほんの少しだけ、ラーナは錯覚を覚えてしまった。泣き出すのをこらえている、子供を前にしているかのような、錯覚。
「…………わかっているのだ」
 瞠目して、レオンは呻くように言った。
「大陸統一は手段に過ぎぬ。恒久の平和をもたらすことこそが、陛下の本懐だと。だが……それでも、私は帝国騎士としての生き方しか…知らなかった……」
「うん……」
 ラーナはうなずいた。
「だから、これから新しい生き方を探すの。操り人形だった私ができたんだもの。レオンにだってできる」
 酷な選択を強いているのだとは、思う。
 魔の手先となり、殺戮のために力を振るっても、ボーゼルのせいにして被害者面ができるラーナとは、レオンは違う。
 自分の意志で剣を取り、軍を率い、屍の山を築いてきた彼が、別の道を選ぶことで背負う重圧は、想像して余りある。
 だから、長い静寂の果てに。
「――――ありがとう」
 そう答えた彼を、心底すごいと思った。
 この人に会えて、良かったと、心から思った。
 ゆっくりと目を開いたレオンが、ふと手を伸ばして、鉄格子の隙間から彼女の頬をぬぐった。
 泣いていたのは、ラーナのほうだった。


     * * *


 どうしてももう一度だけ話がしたくて、エルウィンは獄舎へ向かった。これで駄目なら諦めるつもりだった。
 地下への階段を下り、獄舎の鉄扉を押し開け、中から漏れ聞こえてきた泣き声に、ぎょっとして足を止めた。
 ラーナ?
 それから、それを慰めているふうの、もうひとつの声が。
 エルウィンは知らず、息すら止める。
 それから――安堵の笑みを浮かべてくるりと踵を返した。足音を殺して階段を戻っていく。しばらくは戻ってこないつもりだった。

 長い夜が、明けようとしていた。


(END)


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