狂える光の生まれた世界(前編)

 森の匂いがした。
 ツンとするようでいて、撫でるように鼻孔を刺激する木や土の匂い。
 それは、森に生きるものたちが放つ生命の息吹。
 数多の戦士たちの断末魔と、鉄臭い血の薫りを孕んだ戦場の息吹とはまた違った心落ち着く感覚に、俺は大きく息を吸い込んだ。
 すると、それまで真っ白な闇しか映し出さなかった俺の視界に、碧い輝きが広がる。
 不思議と眩しくはなく、俺は光が静まるのを待った。
 どこだ、ここは……?
 清々しい碧によって塗り替えられた周囲の風景は、溌剌とした青葉の茂る、森のそれだった。
 四方を木々に囲まれ、俺は立ち尽くす。
 なんと奇妙な森だろう。
 そんな感想を抱いた。
 俺のいる場所を中心に、五十歩ほど、晴れた草原のように明るいのに──森の中だということすら疑ってしまうほどに明るかった──、その外は、まるで空間が途切れてしまっているのではないかと思わせるくらい、濃厚な靄に支配されていた。
 木々のざわめきが聞こえない。
 鳥の囀りも聞こえない。
 ここは本当に森だろうか?
 誰かが本物そっくりに似せた、精巧な地形図の類いに迷い込んだような気分だ。
 ──ふと足元を見下ろした。
 そこは一面、黄金色の絨毯。
 手に取って見てみると、それは木の葉だった。しかも枯れ葉ではなく、木の葉そのものが純度の高い黄金のような輝きを持っている。
 ここは御伽噺の世界だろうか?
 摘まんだ木の葉を指で弾き、ゆっくりと顔を上げる。
 ……!?
 いつの間にか、そこには大きな壁が聳えていた。
 いや──、壁ではない。
 それは見たこともないほどに、巨大な木だった。
 湛える木の葉は空いっぱいに広がり、その一枚一枚から生命が滴っている。
 樹齢千年……。二千年……。もっとかもしれない。
 俺は、この木のことを知っている。
 知っている……? 違う……。これから知ることになるのだと、木が教えてくれたような気がした。
 俺は、幹を伝うように、遥か頂を望む。
 その木の名は──。

「う……。あ……あぁ……」
 冷たい滴を頬に感じ、重い双眸をゆっくりと開いた俺の目に飛び込んできたものは、きらきらと煌く光だった。
 目映いまでの白い光が、寝覚めの瞳に痛く染み、俺は思わず目を細めた。
「く……」
 目の中に残るぼやけた太陽が、赤く青く、そして緑に目まぐるしく色を変える。だが、それも束の間のこと。徐々に視力が戻る瞳に映ったのは、青々とした木の葉とその透き間から差し込む陽光。
 夢を見ていたような気もするが、どんな夢かを思い出すことはできない。だが、悪夢ではなかったということだけは、目覚めの良さが証明してくれている。
 ここは木漏れ日の広がる、どこかの森のようだった。既視感があったが、まったく記憶には無い森だ。光を受ける無数の葉は、天に鏤められた翠玉のようで、その光景は深緑の楽園を連想させる。
「う……どこだ、ここは? 天国……か? いや、そんなわけねぇか……。クックックッ……」
 我ながら馬鹿なことを言ったものだ。──と、俺は自分を笑った。天国に連れて行ってもらうには、少しばかり人を殺し過ぎている。
 それに、体を震わせたことによって甦った全身の鈍い痛みが、まだ生きているということを実感させてくれた。
「う……くっ……くそっ」
 体を起こそうとするが、まるで金縛りのように動かず、代わりに体中の痛みが、より確かに覚醒した。
 理由は分かっている。
 全身に浴びた無数の矢。急所への直撃は辛うじて免れたものの、その数は両手で数えても足りぬほどだった。
 そして何よりも酷かったのは左腕だ。今は、半ば痺れにも似た痛みがあるだけだが、昨晩の戦いが夢でなければ、肘から先は、もう使い物にならないだろう。
 このまま放っておけば、死に至ることは火を見るより明らかだった。自然治癒は望めなくとも、魔法ならばあるいは完治するかもしれない。尤もここで体が動かなくては、それも叶わぬ願いとなるだろう。
「くそ……」
 無意識に悪態が漏れ、俺は下唇を軽く噛んだ。

******

 侵略戦争により急速にその支配地を拡大しているレーゲンブルグ連邦王国。
 その侵攻に喘ぐメラスという小国に傭兵として雇われていた俺は、連邦の夜営地を奇襲するという作戦に加えられることとなった。
 司令官から伝えられた作戦自体は拙いものだったが、降り始めた雨と、メラスが劣勢を強いられている現在の戦況が、作戦の成功を予感させていた。
 そして、作戦は実行された。

「ウオォォォォォォ!」
 背中を見せて逃げ出そうとする連邦兵の両足を力任せに薙ぎ払った俺は、そのまま剣を両手で握り直し、倒れゆく相手の胴に返し刃を叩き込んだ。
 右腕ごと心臓まで真っ二つしたという確かな感触が、剣を伝わって掌に浸透する。
 なんと甘味な感触だろう。
 その感触を手放すのは惜しかったが、いつまでもこうしているわけにもいかなかったので、剣を短く握り直し、残された左半身を力任せに断ち切る。
 赤い飛沫が、雨に反抗するように吹き出した。そして、連邦兵は痛みを口にすることもなく絶命し、文字通りその場に崩れ落ちる。
 俺は雨を吸い込まないように、大きな口で一度だけ深呼吸をして、息を整えた。
「ハッ。手応えのねぇ連中だ」
 不敵に笑んで、バラバラに解体されて無様に転がる男の頭を軽く蹴った。
 もちろん死体はそれだけではない。この辺りには幾つもの肉片が散乱し、雨によって薄く伸ばされた赤黒い血が、倒れた篝火の光に照らされ不気味に脈動している。まるでこの大地にだけ生命が宿ったように。
「ひぃふぅみぃ……と。まずは五人か……。クックッ……悪くない。上出来だな」
 五人というのは、最初に敵の中に飛び込んで、ひと息で殺した数のことだ。
 不意を突いたとはいえ、瞬時に五人を葬る──。イェレス大陸広しと雖も、これほどの剣技を持つ者は、そうそういないだろう。
 俺は自らの腕に満足感を覚えた。
 だが──。
「……もっとだ」
 自然とそんな呟きが漏れ、俺は自分の顔から笑みが消えていることに気づいた。
 力、強さ、名声、それとも戦いそのものか。答えはいくつか考えられたが、自分でも自身が何を欲しているのかは解らなかった。
「まぁいいさ……。さぁて……」
 周りから敵がいなくなったことを確認してから、俺は手を休め、暗闇の中に全感覚を走らせた。鋭く研ぎ澄まされた神経が、戦況を如実に教えてくれる。
 夜襲は極めて順調のようだ。
 まさかメラスのような小国が、このような大胆な手を打ってくるとは思わなかったのだろう。意表を突かれた連邦側は、まるで泣きじゃくる子供のように浮足立ち、中には剣を取ることさえ忘れ、動かぬ標的となった者もいた。
 篝火の炎も今や完全に消え去り、明るさに慣れていた連邦兵は、俺たちだけでなく四方から襲いくる濃厚で重苦しい闇をも相手にしなければならないのだから、その混乱の収拾に手間取るのも無理はない。
 ──だが、あっけなさすぎる。
 俺はこの状況に、何か引っ掛かりのようなものを感じていた。
 レーゲンブルグ連邦王国は、多くの国々が集まり、レーゲンブルグに従属、もしくは融和するという形で成り立っている。故に、信頼のおけぬ外からの傭兵などの力にはあまり頼らず、自国から兵を徴収、訓練することによって高い軍事力を維持しているのだ。
 もちろんこのような夜襲を想定した訓練も、曲がりなりにも積んでいるはずだ。普通に訓練が行き届いていれば、そろそろ陣形を整えて反撃してきてもおかしくはない。
 しかし、そんな様子は全く感じられない。
 司令官が能無しだからだろうか。それとも単なる訓練不足だからなのか。もし、そのどちらかならば、深く考える必要は無いのだが──。
「うあぁぁぁぁぁぁ!」
 突如、背後から狂ったような叫声がしたので、俺はそちらに意識を逸らされた。
 見ると、十五歳前後の俺と同い年くらいの若い兵士が、震える手で剣を抜き構えたところだった。逃走しようとして、俺と鉢合ってしまったのだろう。恐怖に取り憑かれている様子で、戦意は乏しく腰が引けていた。
「やれやれ……」
 こういう奴は苦手だ。俺は息をひとつ吐き、前髪に溜まっていた水滴を左手で掻き払った。
 それを青年は挑発と受け取ったのか、脅えながらも剣を握る手に力が込もる。
「お前さぁ。そんな手つきで……」
「し、死んでたまるか!」
 俺の科白が終わる前に、それだけの言葉を必死に絞り出した青年は、隙だらけの打ち下ろしで斬りかかってきた。まるで、真っ二つにしてくれと言わんばかりの攻撃だ。
 ここでこいつを殺すのは簡単だが、俺はふと昔のことを思い出し、剣を振るうのをためらった。
「よっと」
 少し前に出て、空気投げの要領で青年の足を軽く払う。すると青年は受け身も取らず、血と泥に覆われた地面に顔面から突っ込んだ。
「ひ……ひあぁぁぁ……」
 起き上がろうとして、落ちていた肉片を思わず掴んでしまった青年が、声にならない悲鳴を揚げる。
「ふぅ……」
 今度は鼻で短く溜め息を吐いてから首を振った。
 とんだ素人だ。練習兵か補給兵か、どちらにしても実戦経験は皆無に等しいだろう。
 ──思えば俺の初陣も、この青年と同じだった。
 剣を握る手もおぼつかず、狂騒が始まっても、ただ震えていただけの俺。
 そんな俺を殺せなかった壮齢の兵士。
 その男は、たったひと言「去れ……」と、それだけを告げると、俺に背中を向け、逃げる時間を与えてくれた。
 怖かった。
 気が付くと俺は、その背中に剣を突き立てていた。
 その瞬間、俺の手から震えが消えた──。
 この青年は、昔の俺だ。
 俺は生き残り、人の命で己が剣を鍛え上げた。そして、これからも屍の山を築いていく。
 だがこの青年は、ここで終わる。
 なぜなら俺は、あの兵士とは違うからだ。
「もう少し経験を積んでから、俺に挑むべきだったな」
 言葉の中に僅かな殺気を含ませて、おもむろに剣を振り上げる。ためらいは微塵も無い。
 そこに甲高い笛の音が響いた。
「ちっ……。時間か……」
 退却の合図だ。
 夜襲の目的は、優位にあっても攻撃されるかもしれないという不安と恐怖を敵に植え付けることであり、闇に紛れて敵を殲滅することではない。
 ある程度の戦果を得られたこの襲撃で、味方に被害を出す前に撤退の判断を下したこちらの指揮官は、それなりの判断力を持っていたと言えよう。
「フッハッハッ……。俺も、あのオッサンと同じか……。おい、お前。命拾いしたな」
 俺は剣を下ろし、にやりと歯を見せた。
 戦であれば、人を斬ることも楽しめる。だが、俺は狂戦士でもなければ、死を食い物にする畜生でもない。戦いが終わった今、この青年を殺す意味は無くなり、やる気も萎えてしまった。
 それに、もしかしたらこの青年が、数年後には大陸に名を馳せるほどの大剣士になっているかもしれない……。そんな馬鹿な妄想が、頭の中を駆け巡った。しかも、それが本当のことのように思えて、滑稽なことこの上ない。だが生きてさえいれば、この戦乱の世で強くなる機会はいくらでもあるのだから、まんざら冗談とも言えない。
「ま、せいぜい頑張りな」
 俺は笑いを堪えて言った。
 何をどう頑張れと言われているのか、まるで解っていない青年が、目を丸くしながら、まだその場にへたり込んでいる。その姿がますますおかしい。
「急ぐか……」
 時間を潰しすぎた。
 走りやすいように剣を背中に固定した俺は、おもむろに青年の横を通り過ぎる。
 それを好機と考えたのだろう。視界の端で青年の腕が僅かに動いた。
 やはり俺と同じだ。
「……悪くない判断だ。だが惜しかったな」
 青年の手が剣の柄を掴んでいる。だが一足先に、俺の足がその剣の刃を大地に押し付けていた。
「そう死に急ぐんじゃねぇ。心配しなくても、お前は殺さなねぇよ。さっきの笛。あれは撤退の合図だからな。せっかく拾った命だ。せいぜい大事にするこった」
 そうは言ったものの、これ以上抵抗されるのも厄介だったので、青年の鳩尾に爪先を叩き込む。
「うぐっ……ゲェッ……」
 青年は、短い呻きと共に少量の体液を吐き出して、間もなく悶絶した。
 もう会うことは無いだろう。俺は青年に一瞥くれてから周辺の地図を思い出し、あらかじめ幾つか決めてあった退路のひとつに向かうことにする。
「──!」
 だが、その方向に足を向けようとした瞬間。何者かが、高速で近づいてくる気配があった。
「チッ。新手か……。こんなときに……」
 俺は剣を構え直し、周囲に意識を飛ばす。
 夜目が利いているとはいえ、厚い雨雲によって月明かりは遮られ、そこから落ちる雨のせいで視界は極めて悪い。加えて、大地を激しく打つ雨声が聴覚を狂わせる。
 直感だけが頼りという危険な状況だが、それこそ俺の最も得意とするところでもあった。
 それに相手も同じ条件のはずだ。こちらの居場所が簡単に解るとは思えない。
(どこだ……?)
 他の感覚を断ち、冷静に気配だけを求める。
 ──左の後方。
 微かに大地の震動がある。それにこのスピード。相手が馬に乗っているのは、間違いない。
 来た。
 振り返って目を開いたとき、俺の目の前では、軍馬に跨がった騎士が既に一撃を放とうとしていた。
「えいゃぁぁぁ!」
「くっ!」
 暗闇から繰り出された強烈な突きの軌道を、体を捻りつつ剣を叩きつけて逸らす。だが、雨で泥濘んだ地面のせいで踏ん張りが利かずバランスを崩した俺は、無様にも尻餅をついてしまった。
 剣の柄に泥が付いてしまい、強く握っただけで掌に突き刺さるような痛みが走る。
「くそっ。やるな! ──どこだっ!?」
 俺は素早く立ち上がり、相手の位置を確かめる。どのような方法でかは解らないが、相手にこちらの動きが見えていることは明らかだ。今の間合いで相手を補足できないまま攻撃されれば、今度は躱しきれない。
 だが、突撃時の勢いのまま闇に消えていった騎士は、すぐに追撃に入らず、だく足で引き返して来た。
「傭兵風情がよく躱したな。だが今度は外さない」
 激しく降り頻る滴のカーテンの中、徐々に浮かび上がったシルエットが自信に満ちた声で言った。
「な……!?」
 なんとその声は、女のものだった。しかも、まだ少女と言えそうな若さだ。軍馬を使っているということは、正規の騎士だろうか。
「馬鹿な。女だと!?」
「フッ……。女だからと甘くみないことだ」
「ちっ。言ってくれるぜ……」
 俺は舌打ちしながらも、口元は笑みで歪めていた。自らの内から涸れることなく湧き出る歓喜を、感じずにはいられなかったからだ。
 ようやく俺の強さを試せる相手が現れてくれた。
 手加減するつもりなど毛頭無い。それどころか本気を出さなければ、こっちが殺られるだろう。
 全身に鳥肌が立っていた。
 この少女が並の使い手ではないということ。それは、さっきの一撃が教えてくれている。
 あの突きは、練習や経験を積んだからといって簡単に繰り出せるものではない。相手の動きや間合い、自らの筋力から、タイミングと強さを瞬時に判断し、無意識の内に放たれた、最も効果的な一撃。そんなところだ。
 だが、そんなことができるのは、歴戦の戦士か、一握りの天才だけだろう。
 しかもこの暗闇をまるで障害としない、躊躇いの無い攻撃だった。
「それにしても、連邦に女の騎士がいるとは思わなかったな。しかも、まだ子供ときてやがる。人を斬ったことも無いんじゃないのか?」
 俺は正直な感想を述べた。
 軽い挑発のつもりだったのだが、少女はまるで動じる様子もなく、透かさず返してきた。
「侮辱するつもりか? お前に年齢の事をとやかく言われる筋合いは無い。それに年齢や性別。そして生まれなどが戦いに於いて何の意味も持たぬということ──。言わずとも、お前には解っているだろう。その若さで、それだけ血の匂いをさせているのだからな」
「フッ。違いねぇ……」
 その返答に、俺は声を出さずに笑った。
 少女の年齢は、俺とほとんど同じだ。
 なのに、この少女は普通の人間と、どこかが違う。
 闇の中だというのに、まるで自身が輝いているかのような強い存在感を放ち、無視を許さない感じがある。戦いの才能だけでなく、英雄としての素質もありそうだ。 だが、それは俺とて同じことだと思っている。生まれついての才能こそ無いが、剣の器は天稟のものを備えている確信があった。そしてその器は、まだ満たされていない。つまり、これからも力が注がれるのだ。
「俺たちのような選ばれた人間にとって、性別やら年齢なんてものは関係ないってことだな……。フッ……ハッハッハッ──。面白い。俺の培ってきた剣才と、お前の天賦の剣。どちらが上か試してやろう」
「ほざけ。同胞の仇、とらせてもらう」
 女騎士が馬から降りた。俺を侮っているわけではない。そうしなければ勝てないことを知っているのだ。
 それを見届けて、俺は剣を一振りする。
「やれるものならな。行くぞ!」

******

 森を進む一団があった。
 その数はおよそ十人。
 ほとんどの者が軽装の鎧を纏い、腰には銀の輝きが収められているであろう鞘を吊っている。
 この大陸の者ならば誰もが知っているだろう。彼らが連邦の兵士なのだと。
 だが、その陣の中央に位置する二人は、豪奢なローブに身を包んだ魔術師風の風体だった。 一人は白い髭を満面に湛えた壮年の男だ。そこそこ高齢であるにもかかわらず、その眼光は刀剣のように鋭く、ただならぬ圧力を醸し出している。
 もう一人はまだ若い男で、ギラギラとした目付きが、その全身に漲る野心を物語っていた。
 壮年の男はギザロフ。若い男はクルーガーという。
 最強と謳われる四将軍の一人、ギザロフは、稀代の魔導術士でもある実力者だ。そしてその息子、クルーガーもまた、優れた魔力を有する魔術士だった。
 しかしそれは表の顔と言えた。
 ギザロフたちの真の目的を知る者は少ない……。

******

 耳に突き刺さるような剣戟の響きが弾け、俺の剣が宙を舞った。それに気を奪われた俺は、一瞬だけ女騎士から注意を離してしまう。
「しまった──!? くっ!」
「覚悟っ!」
 その好機を逃すわけもなく、女騎士の槍が容赦なく俺の心臓に向かって突き出された。
 俺は咄嗟に、右足に括り付けてあった短刀を逆手で引き抜いた。
 しかし間に合わない。
「ぐぅっ……」
 重い衝撃が俺の全身を揺らす。
「まだだぁ!」
「何っ!?」
 俺の短刀が鋭い弧を描き、女騎士の右腕を裂く。
「──ッ」
「チッ。浅いか」
 擦った程度だ。
 だが、追撃の絶好の好機。
 俺は片手で刃をくるりと翻し、一撃目の勢いを殺さぬように、間髪を容れず相手の喉めがけ短刀を走らせた。
 しかし、短刀は雨滴だけを断ち、空しく空振りする。
「くそっ」
 見事な反応だった。
 抜群の瞬発力で上体を反らしていた女騎士は、大きく跳躍し間合いを取り直す。
「ハァハァ……。く……なかなかやるな……」
 浅く大きく開いた傷口を押さえている女騎士の表情が微かに濁る。
 だが、それは俺の科白だ。そう心の中で呟いた。
 女騎士と自分の傷を見比べても、どちらの傷が深いかは一目瞭然。先程の突きを、素手で……それもそのまま受け止めたのだから、無茶無謀もいいところである。
 左腕に目をやると、中指と薬指の間から肘までが、まるでチーズを引き裂いたように枝分かれしていた。
「お前ほどじゃない」
 溜め息交じりにそう言って、濡れたベルトを梃摺りながら引っぱり抜き、それで左腕を固く縛った。ごぽりと血が溢れたが、間もなく血が止まる。
 それから右手のリストバンドをなんとか左腕にはめ、処置は完了した。
 左腕が燃えているように熱い。そのせいか、雨がまるで氷水のようだ。あまりの痛みに涎が止まらず、さぞ見苦しい顔をしているだろう。
 女騎士は槍を素早く左手に持ち替え──両利きなのだろうか?──、その先端を俺に向けた。
「おとなしく投降しろ。そうすれば命までは取らん。その傷だ。立っているのも辛いのではないか?」
「あいにくと俺は諦めが悪くてな。お前こそ、その右腕。随分辛そうに見えるが、そんなんで戦えるのか?」
 我ながら安いハッタリだと思った。
 だが、ここで精神面での優位も失う訳にはいかない。
「フッ。ならば試してみるか?」
 女騎士が左手で槍を閃かす。
 弾ける飛沫に触れただけで、切り裂かれてしまいそうだった。やはり過信では無いようだ。その槍からは、右腕の時となんら変わらぬ技の切れが感じ取れる。
「やれやれ……。右も左も同じってわけか」
「解ったか? ──それにもうすぐランフォード将軍の部隊が到着する。万が一に私を倒せたとしても、お前はここから脱出することはできない」
「ランフォードだと?」
 その名は知っている。
 剣技、知略、武勇。その全てに於いて比類なき才能を発揮し、若くして連邦将軍の地位を得た男。
 連邦の兵士たちの動きが悪かったのも、これで合点がゆく。おそらく百万の援軍を得た気で、安心しきっていたのだろう。そこをうまく襲撃できたのだから、メラスにとって、その点だけは幸運だったのかもしれない。
 しかしランフォード将軍がメラスの制圧に乗り出したということは、メラスに明日は無いということだ。
 メラスの明日など知ったことではないが、もしこの場にランフォード将軍や、その直属の部隊が現れたとすれば、この状況は非常にまずい。
「くっ……。どうする……!?」
 女騎士をちらりと見る。その表情からは、既に勝利を確信しているという自信が窺えた。
「投降する気になったか?」
 視線に気付いた女騎士が口を開いた。
 俺は自分の両手を見た。
 右手には短刀が一本。体の一部と言ってもいいほど使い慣れてはいるが、槍を相手にするには些か分が悪すぎる。現に俺が女騎士につけた傷は、右腕の掠り傷だけで、その代償に左腕を失っている。剣で槍に挑む場合、相手の倍以上の技量が必要だという。そして達人の槍術は、魔法による結界にも勝ると聞いたことがあった。短刀では、まず勝ち目は無いだろう。
 左手は、もう動かすことができなかった。利き腕が残っていても、左腕が死んでいるのでは、バランスがうまく取れず、剣の威力も半減してしまう。
「そうだな……。もう俺に勝機は無い……」
 もし奇跡的に女騎士を倒すことができたとしても、その代償はいかなるものであろうか。これ以上の傷を負えば、間もなく到着するであろうランフォード将軍──いや、連邦騎士たちとさえ戦うことはできないだろう。
 俺は右手をだらんと下げ、地に視線を落とす。
 それにつられてか、女騎士も一瞬構えを解いた。
 ──それこそが俺の狙いだった。
「だが捕まる気もねぇ!」
 咆哮した俺は、力任せに地面を蹴り上げる。
 跳ね上がった泥が、女騎士に襲いかかった。
「くっ。ふざけた真似を! このくらい……」
 寸前で後ろを向いて、目潰しを回避した女騎士が、こちらに向き直しながら神速で槍を繰り出す。
 この距離では避けられない。
 だが俺は、その状況で一笑した。
「あうぁっ!」
 悲鳴を揚げたのは女騎士だった。その右膝には、俺の手から離れた短刀が突き刺さっている。
 俺はその隙に、先程弾き飛ばされた剣に飛びつき、それを女騎士の顔前に突きつけた。
 それまで加速していた時間が、そこで停止した。

******

「お待ちください、父上」
 突然、クルーガーが一団を制した。そして、少し先の木の虚の辺りを示す。
 よく解らないが、何やら黒い塊が見える。
「何でしょう? あれは?」
「うむ……」
 ギザロフは一瞬足を止めただけで、すぐにその何かに向かって歩きだした。クルーガーと兵士たちも、少し慌ててそれに倣う。
「父上。お気をつけください」
「案ずるな。ヤツは、すでに虫の息だ」
「ヤツ……ですか?」
 クルーガーが不思議そうに聞き返す。
 このとき、注意深くギザロフを見ていれば、その眼が怪しく輝いていたことに気づいただろう。
 そう──。ギザロフには見えていたのだ。
 それは視力強化の魔法。ギザロフの強大な魔法力は、低位魔法なら念じるだけで、発動を可能とさせていた。
 黒い塊は、無数の矢を受けた人間だ。黒く見えていたのは、血の衣に覆われているためである。
 常人ならとうに死んでいてもおかしくない出血量だが、その人間からはまだ生命力が感じられた。
「クルーガー」
「はい。なんでしょうか父上」
「お前はこのままレインフォルスのもとへ行き、例の物を受け取ってくるのだ」
「はぁ。それは構いませんが……」
 怪訝な面持ちのクルーガーが、先で倒れている人間とギザロフの顔を交互に窺う。
「クルーガー」
 ギザロフはもう一度クルーガーの名を呼んだ。それを聞いたクルーガーの表情が凍りつく。
「あ……は、はい。わかりました」
「よし。では行け」
「はっ。──行くぞ、お前たち」
 クルーガーの指示に、兵士たちの進む方向がわずかに変わる。そしてクルーガー自身も、ギザロフに軽く頭を下げてから、そのまま森の奥に消えていった。
 残されたギザロフは、口許を少しだけ歪めた。
「クックッ。あれは、使えるな……」

******

「──形勢逆転だ」
 俺は冷ややかに告げ、鈍く輝く切っ先を女騎士の首筋にぴたりと当てた。
 いつの間にか雨は止み、俺と女騎士の呼吸だけが時を刻んでいるような感じだった。ゆらりと漂う息の白さが、逆にその場の空気を重くしているようで、否応無しに緊張を高めさせる。
「くっ……。姑息な手を……」
「姑息か……。反論はしねぇ。勝ち負けで言えば、お前の勝ちだったからな。だが、お前は才能に頼り過ぎた。俺とお前では、くぐった修羅場の数が違うってことだ」
 実戦経験の乏しい者は、通じてフェイントに弱い。それが剣や槍などの一般的な戦闘術から掛け離れていれば、なおさらである。
「さあ、殺せ……」
「覚悟はできてるってことか……。いいだろう」
 先程の青年とは違う。これは命を賭けた死闘なのだ。その決着は、死をもってつけるほかない。
 俺の剣が女騎士の首筋に少し沈む。それに応じるように女騎士の瞼が下りた。
「……」
 だが俺は、女騎士の首を落とすことなく、その場に剣を下ろした。
「……フッ……やめた」
「……なに!? 貴様、どういうつもりだ? 私を侮辱するつもりか?」
「好きに思うがいいさ。こっちはただ、負けたままじゃ気が済まなかっただけだ」
「く……、そんな理由で……?」
「お前にはくだらん理由かもしれんが、俺にとっては、充分すぎる理由なんでな。お前を殺したところで、俺がお前よりも強いという証にはならん。俺が欲しいのは、勝利でも命でもなく、強さの実感だ。クックッ……。解らないという顔をしているな。女のお前には到底理解できんさ。それとも何だ? お前、死にたかったのか?」
 俺は僅かに笑みを漏らした。
 怒りを剥き出しにした視線が心地良い。
「おのれ……。この屈辱、忘れはせぬ。私を生かしておいたこと、すぐに後悔することになるぞ」
「ハッハッハッ──。後悔か。覚えておいてやろう。だがお前も覚えておけ。次に戦った時も殺されないと思っているなら、それは大きな間違いだということをな!」
「な……、貴様、逃げられると思っているのか?」
「フッ。俺を甘く見るなよ」
 剣を肩に乗せ、不敵に笑ってみせる。
「──じゃあな。また戦える日を楽しみにしてるぜ。女騎士さんよ」
 俺の言葉に何かを返すわけでもなく、女騎士はフンと、一度だけ鼻を鳴らした。
 不意打ちを受けないよう、慎重に間合いをとり、剣を背中に収める。
 そして俺は、そのまま闇に向かって走りだした。

(くそっ……。マジでやばい)
 先程から鳴り続けている頭の中の警鐘が、更に強く打ち鳴らされている。
 速さを失ったあの女騎士は既に無力化しているので、追って来ることはまずない。問題は、自身の傷の深さと、すぐそこまで来ているであろう敵の増援だ。
 左腕の感覚は、もう果てしなく遠くなっていた。腕や足を失った者は幻肢というものに苛まれることがあるらしいが、それとは全く逆の気分である。まるで初めから無かったように何も感じない。
 退路は完全に絶たれていると考えていいだろう。ランフォード将軍が前線で直接指揮をとっているとすれば、先に撤退しているはずの友軍も無事では済まないはずだ。
 頭の中で何度もシミュレートしてみるが、どうにも良い答えが見つからない。
 俺は走るのをやめ、手近な木の蔭に飛び込んだ。
「ちっ。ざっと三十人はいやがるぜ……」
 一番手薄だと思った退路には、連邦の正騎士がびっしりと待ち構えていた。猫の子一匹逃がさないというような徹底した布陣であり、それを証明するかのように、味方の死体が幾つか転がっている。
 木に凭れると、無意識に小さな嘆息が漏れた。
 体調が万全であっても、あの正騎士の群れの中を抜けるのは、少々骨が折れそうだ。
 だが、この先はロシュフォールの大森林。そこまで逃げ切ることができれば、今を生き延びられる見込みは充分にあった。森での戦いを不得手とする騎士が、危険を冒してまで追いかけてくるとは思えないからである。
 このまま待っていても敵が減ってくれるようなことはあるまい。それどころか、こちらが発見され、三十人の騎士を丸々相手にしなければならなくなるのがオチだ。
 足には自信があった。突破さえしてしまえば、重量のある鎧や甲冑を着込んだ騎士どもが、俺の動きを捉えることは、まず不可能。
 なら取るべき手段は一つ。
「行くぜ」
 俺は背中の剣を抜き、体勢を低くした。大きく空気を吸い込み、肺をいっぱいにする。そして力いっぱい地面を蹴りつけ、木の陰から飛び出した。
 まずこちらに気づいたのは、俺の標的となっていた背の高い騎士。──が、遅い。
 俺の剣は、そいつが気付くと同時に、その胸に赤い弧を描き、戦闘不能に至らしめる。
 一人目を斬り伏せたところで、その近くにいた四人の騎士が、俺に向かって殺到し始めた。他の騎士達は、それを更に取り囲むように陣を展開する。
 流石はランフォード将軍の部隊。連携もさることながら見事な判断力だ。数と戦力の差を活かし、味方の犠牲を出すことなく、複数で一人の敵を確実に仕留めるつもりなのだろう。残りは援護に徹し、もしも前衛が崩れたときには即座に補充に回るのである。
 だが、この戦術には致命的な欠陥があった。それは、実力差が均衡している、もしくは自分たちよりも格下の相手にのみ有効だということだ。
「──みくびるなよ!」
 俺は突撃の足を緩めることなく、正面を塞ぐ騎士の群れに突っ込んだ。
 視界に入ってきた敵は、片っ端から倒し、目の前から全てを排除していった。
 相手が生きているかどうかなど確認していない。死んだ奴は、運が悪かったというだけだ。
 それでもまだ騎士たちは、いっこうに減る気配を見せなかった。
 いったい、あと何人倒せば、終わるのだろうか?
 剣を振り続ける中で、俺は意識が遠く離れてゆくのを感じていた。斬れども斬れども何の感慨もなく、剣を握っていることさえ忘れそうになる。
 それは、夢の中にいるような、全く現実味を帯びぬ戦いとなっていた。
 自分自身の心が溶けて無くなってゆくような感じで、このまま真っ白になって眠りたい。
(もういい……かもな……)
 そう思った瞬間だった。
 真っ白に染まっていた俺の脳裏に稲妻が走り、右足を激痛が貫いた。
「ぐっ!?」
 危うく転びそうになるのを何とか踏ん張ったが、鋭く風を切る音が、続いて俺の右肩と脇腹に吸い込まれる。
 三本の矢が突き刺さったのだということに気づくまで数秒を要し、俺の意識が完全に覚醒する。
「くそっ。なんだって言いやがるんだ!?」
 ふつふつと痛みに対する憤りが込み上げ、それが俺の闘志をも甦らせるのに、時間はかからなかった。

******

「そしてお前は、全身に矢を浴び続けながらも、その場にいた我が国の騎士を全滅させ逃亡したというわけか」
「ああ……そのはずだ……」
 ──男はギザロフと名乗った。初対面だが、もちろんその名は知っている。
 だが、噂とは随分と違った印象の男だ。
 レーゲンブルグで最も優れた魔導術士にして、最も忠誠心に溢れる将軍。──という話だが、目の前の老人は、自国の兵士が全滅させられたという話を喜々として聞いているように見える。まるで忠誠心など、かけらも持ち合わせていないように──だ。
 それにこの嵐のような威圧感。とても魔術師のそれとは思えない。もし戦場でこいつが目の前に現れたら、俺は逃げ出しているかもしれない。
「──ふむ……なるほど」
 俺の返事を聞いたギザロフは、天を仰いでからもう一度俺を見下ろした。
「お前は、なぜ生きていられる?」
 突然の不明な質問に、俺は驚いて僅かに目を開く。
「あぁ……? けっ……そんなことは神様にでも聞いてくれ……。もしかしたらもう死んでるのかもしれねぇぜ。クックック……」
「常人であれば失血量が一定を越えると意識を失う。なのになぜお前は意識を維持できる? 意志のなせる業か? それとも血のなせる業なのか? フッハッハッハッ──。面白い。実に面白い。お前のその生命力。意志力。そして騎士団を全滅させたという戦闘能力。素体として申し分ない。その力、儂のために役立ててもらおうか」
「悪いな……俺はもう誰のためにも働かん……。様ぁねぇぜ。自分の体ひとつ満足に……動かないんだからな」
「フッフ……そうか……。ならば──」

『儂がお前に命をひとつくれてやろう』


[後編に続く]


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