修羅
act.1 カイン


 夜の帳が覆う深夜。
 低く重苦しい声が静まり返った空間に響く。
「…そうですか…解りました…」
 そう言って受話器を置いた後、カインは重い溜め息を漏らした。
「どうしたらいいんだ…」
 誰に言うでも無い、小さな呟きだった。

 季節は晩春。
 宵闇の中に朧に浮かび上がるのは、絢爛に咲き誇る一本の桜大樹。
 その桜が、散っている。
 静かに。
 ゆうるり、と。
 それをぼんやりと眺めながら、エイジは呟いた。
「…約束したのになぁ、桜見物に行こうって…」
 ハラハラと舞落ちる薄紅の花弁を見つめ、またひとつ。
 小さく溜め息を付く。
「一体…何処に行ったのかなぁ…」
「…その内戻ってくるさ」
 不意に背後から掛けられた声に、けれど振り返らずエイジは苦笑する。
「カイン…、別に心配なんか…」
「して無いって面じゃ無いぜ?」
 エイジの顔を覗き込みながら、カインがからかうように囁いた。
 エイジの実兄であるショウに弟子入りして来た、この目の前に在る異邦の存在と共に修行するようになって早2年。
 今では親友とも呼べる存在であるカインは、エイジ自身よりもエイジの事が解ってしまっている。
「…心配なんだろ?」
 もう一度尋ねられて、だからエイジは素直に頷いた。
「ああ…」
 それは、一通の封書から始まった。
 何処の誰からのものか解らない封書に目を通したショウが、直ぐに戻る、と一言だけ残して出掛けてから既に三カ月。
ショウからの連絡は皆無だった。
 何処に出掛けても、どんなに時間が無かろうと決してショウはエイジに連絡を滞らせた事が無かった。
 だからこそ、不安だった。
 幼い時に両親を失い、親代わりにエイジを育てて来てくれた兄と、こんなに長い間離れたことは無かったのに。
 こんな事は過去に一度も無かった。
「だけどな、エイジ。心配はいらないと思うぜ? あのショウさんに限って《もしも》なんて事が起きるとでも思うか?」
 己の不安を打ち消そうとカインは自信に満ちた声音で言うのを耳にして、エイジは自分自身を納得させるように、けれど言葉無く頷いた。
「桜は奇麗だけどなエイジ、お前何時から此処にいるんだ? すっかり冷えきってるじゃないか?」
 肩に触れるカインの手の温もりを、心地よいと感じてエイジは笑みを零す。
「え…? ああ、そう言やちょっと寒い、かな…」
「あのなあ…」
 呆れた口調で嘆息を零し、カインはそれでも動こうとしないエイジに強行手段に出ざるを得なかった。
 要するに抱き上げたのだ。
「うわッ!」
 突然のその行為に驚いて目を見開いたエイジが文句を言うより早く、カインはエイジを抱き上げたまま寝室に足を踏み入れる。「ほら、さっさと寝ろ。でないと…襲っちまうぞ?」
 布団の上に横たえながらカインはエイジに囁く。
「ばッ、馬鹿野郎!」
 その囁きにエイジは耳まで真っ赤に染めて怒鳴り声を上げた。
 もがくように言い放つエイジの浴衣が僅かに乱れる。
 その様の何と艶っぽい事か。
 カインの目が思わず細まる。
 元々可愛い、とは思っていた。
 ショウの元に弟子入りしたその日、紹介された時から。
 ずっと。
 だが押さえて来た。
 カインはその感情を懸命に堪えて来た。
 友で良かった。
 エイジの信頼からくる笑顔を失いたくなかったから。
 今日までは。
 可愛いと言う印象の奥に秘められた、強さと、そして煌きを見守りたい。
 唯それだけでいいと思っていた。
 だが・・・。
 カインは無意識に苦い笑みを口許に浮かべる。
 もう、どうしようもない。
 エイジは己に覆いかぶさるような体勢のまま沈黙し、ジッと見下ろしているだけのカインを怪訝な面持ちで見上げる。
「…おい、いい加減に退けよ…」
 エイジの困惑の声音にカインはやはり無言だった。
「カイン…?」
 潤むような蒼い瞳が、何故か怖い。
 そんな気がしてエイジの身が竦んだ直後だった。
 エイジの唇がカインのそれに塞がれたのは。
「…ッ 」
 唐突なその行為に唯、目を見開いたまま愕然とエイジは硬直してしまった。
 それに付け入るかのように、カインはエイジの乱れた浴衣の襟元を少々強引に開いた。
 その瞬間、エイジは反射的に押しのけようと足掻く。
 だが、己の両脚に身を割り込ませ、体重を掛けて抑え付けた状態に有るカインを、エイジに撥ね除ける事が出来よう筈も無かった。
「どッ、退けよッ!」
 焦りのあまり上ずった声音で叫ぶエイジは、それがカインの意識に逆に油を注ぐ事になってしまうと気が付かない。
「NOだ、エイジ」
 酷く端的に言われ、エイジは逆上した。
 何故、自分がこんな目に合わなければならないのかと理不尽な怒りに懸命に抵抗する。
「ふざけるな!」
「煩い口だ、少し黙っていろ」
 そう言ったかと思うと、カインは再びエイジの唇を塞ぐ。
 その口づけは、先程の触れるか否かと言った軽いものでは無く。
 ここに居るのはいつものカインでは無い。
 深く深く、エイジの意識が霞むほど強烈なものだった。
 息が詰まる程に。
 絡み付くカインの舌が、エイジの口中を嬲るように蠢き、拒み続けるのは最早不可能だった。
「…う、んっ…」
 息と共に飲み込み切れない喘ぎが、唇の端から唾液と一緒に滴り零れる。
 十代半ばの幼い感性が堪えるには、激しすぎる行為であったから、既に口づけが終えられているとしても何がどうなっているのか  エイジの朦朧とした意識には感知出来はしない。
 だから、身を包むものの全てが何時の間に剥ぎ取られたのかも解らなかった。
「エイジ、…好きだよ…」
 今まで聞いたことも無い、カインの優しい囁きがエイジの耳朶を擽ったかと思った瞬間。
 エイジの体内に激しい熱を伴った楔がねじ込まれた。


「・・・」
 目が醒めたのは、昼も大分過ぎた頃だったか。  
 身を起こそうとして己の身体がまるで自分のものでは無いように重く、その上身体の奥が鈍く痛む事にエイジは舌打ちする。
 腹立たしい事に、その原因を作った者はエイジの傍らに居ないのだ。
「くそ…!」
 悪態を着くように低い呻き声を放ち枕に顔を埋める。 
 男なのに。
 自分はカインと同じ性を持つ筈なのに。
 乱れさせられ、仕舞いには求めた。
 それが情けなくて不甲斐なくて、眦に悔し涙が滲む。
「カインの…馬鹿野郎…!」
 枕に突っ伏したまま詰るしか出来ないなんて、悔しい。
 どうしてこんな事をしたのか、解らない。
 許せない。
 一発殴って遣らなくては、否、数日は足腰が立たなくなる程叩きのめして遣ろうと考え直す。
 そうでなくては気も済まないでは無いか。
 鈍痛が無くなったら、絶対にそうして遣る。
 エイジが巡らせた思考を完結した時、襖が開いた。
「カイン…!」
 室内に入って来た男の顔を見るなり、エイジの面に朱が走る。
怒りと屈辱と、それから昨夜の情事故に。
 だが。
 それらが一瞬で消し飛んだのは、カインの低い呟きを聞き届けた瞬間だった。
「…オレはこれから直ぐ…家に帰る」
 一瞬エイジには言われた意味が理解出来なかった。
「な…?」
 それは、どう言う事だ、と憤然とした表情をエイジは露にする。
 カインの家、とはアメリカの事だ。
 こんな酷いことをしておいて、俺に何の謝罪も無いまま、国に帰る?
 冗談にしても性質が悪すぎるでは無いか。
 ふざけるな。
 言葉にしなくても十分にエイジの表情から、少年の言いたいことを察したカインは内心で激しい葛藤に襲われていた。
 本当は、帰りたくなど無い。
 ずっと側に居たい。
 決して己の本心を悟られぬまま、ずっと親友として傍らに居て、互いを高め合って。
 そのつもりだった。
 だが、カインは理想的な関係を自ら壊したのだ。
 自らの手で、ある決意のために。
 それ故、生涯エイジに憎まれる事になろうと構わないのだと無理やり自分に言い聞かせて、壊したのだ。
 なのに。
 その決意が揺らぐ。
 愛しい、何より愛しいエイジの漆黒の瞳に涙が滲むのを見て居ると。
 だから、カインは踵を返す。
「ま、待てよッ!」
 どう言うつもりなんだ、何が有ったと言うんだ。
 どうしてなんだ。
 訳を言えよッ。
 声にならないエイジの問い掛けを、その縋るような視線を、振り切るようにカインは沈黙のまま部屋から出て行く。
「カインッ!」
 エイジの己を呼ぶ声にカインは沈黙のまま後ろ手でピシャリと襖を閉めた。
 それが、決別の証し。
「畜生…ッ」
 エイジの呻くような声が耳を打ち、胸を締め付ける。
 だが、カインにはもう振り返る事は出来ない。
 だから、触れた。
 だから、愛した。
 己の想いを口に出して、伝えた。
 応えが返らない事を理解した上で。
 これから自分は人外の道を歩むだろう。
 そんな予感めいたものがカインにはあった。
 真っすぐで、綺麗な心を持つエイジにはきっと似合わない世界が自分を待ち受けて居るのがカインには解ったのだ。
 父が殺されたと昨夜知った瞬間に。
 許せ、とは言わないし言えない。
 否、いっそ憎んで欲しい。
 そして、いつか忘れてくれ。
 それらの想いの全てを胸の内に押し込めて、カインは冷徹に言った。
「さよならだ、エイジ」
 決別の言葉を鉄面皮を装った面に乗せて言ったその時。
「許さないからな、絶対に許さないからなッ!」
 エイジの怒声が襖越しに放たれた。
 瞬間、己の顔を自らの手で覆ったカインの指の隙間から、冷たい滴が零れ落ちた。
act.2 ショウ


 光の明滅が、深夜の町並みを彩っている。
 マンハッタンを人工の雑多な光が降り注いでいた。
 その様はまるで不夜城が如く。
 当然、人の気配も絶えはしない。
 そんな中を、幾つかの影が疾る。
 誰にも気取られぬように。
 暫く続いた追いつ追われつの影の動きが変わる。
 先頭にあった影が唐突に止まったかと思った刹那。
 微かな悲鳴が暗闇の奥で上がった。
 唯一つの影を除いて、何もかもが動きを止めた。
 永遠に。
「…しつこい…」
 額に張り付いた栗色の長髪を撫で上げ、その存在は不快な吐息を吐き出すと、愛用の物干し竿と呼び称される長剣を一凪ぎして血 糊を払うと鞘に仕舞った。
 何故、こんな事になって仕舞ったのか。
 ネオンに彩られた男の、端正な面が僅かに歪む。
 もう、半年もこんな状況が彼の全てを占めていた。
 そもそもの切っ掛けはは、彼の手元に届いた一通の封書であった。
 それは、ある武道会の招待状。
 無視すればよかったのだ、あのようなもの等。
 今更後悔しても遅過ぎる。
 それでも、未だ若すぎるほど若い武道家である彼には、己の腕を確かめずにはいられなかったのだ。
 愚かだった、と思わずにはいられない。
 戦いの後の乱れた呼吸を整え、怜悧な視線を周囲に向けて殺意の気配が完全に途切れたことに安堵する。
 こんな状況が続いているうちは、故郷に帰ることは当分無理だろう。
 戻れば即ち、無関係な彼の身内にまで被害が及ぶ。
 それだけは避けたかった。
 彼の身内は、たった一人の弟。
 早くに両親を亡くし、彼が懸命に育てた何より愛しい弟に、こんな日々を送らせる訳にはいかないのだ。
 事態に収拾の着く日までは、どんな事が有っても。
 それでも、会いたいと願う気持ちにまでは嘘が付け無いでいた。
 今頃どうしているだろうかと思った途端、脳裏に弟の拗ねたような表情が浮かび彼の口許に笑みが零れた時。
 間近で何かが動く音がした。
 彼の身体は無意識にその動きの所に跳んでいた。
「う、わ…ッ」
 途端、上がったのは脅えを露にした悲鳴。
 抜き身となった刃を向けたその先に有ったのは、未だ幼さの残る少年の顔。
 少年の黒い大きな瞳が、恐怖に揺れている。
 だが、それ以上に見開かれたのは彼の瞳であった。
「…エイジ…」
 戦慄くように、彼の唇から声が漏れ出る。
 それは、彼の最愛の弟の名。
 目前の少年は、余りにも彼の弟に似ていた。
 会いたくて、会いたくてどうする事も出来ないもどかしさに身を焦がしていたショウにとって、エイジに似た少年を放置する事は出来なかった。

 結局彼は少年を連れて来てしまっていた。
 己が身を潜めている所に。
 それは無論、唯少年がエイジに似ていたから、と言う訳も有るが、それだけが理由では無かった。
 少年は、目撃してしまっているのだ。
 ショウが人を殺傷している場面を。
「オ、オレ、何も、見て無いから!」
 余計な事など言うべきでは無かったのだと、少年が思った時はもう遅かった。
 ショウは少年を抱き抱えてしまっていた。
 明るい所でよく見れば、少年の姿は浮浪児のそれ。
 自分が拉致した所で誰が咎める事も無いだろうと十分判断出来た。
 薄汚れた成りをした少年はカタカタと震えながら、己を見るショウを脅えた表情で見上げて怒鳴った。
「オ、オレをどうするつもりだよ?!」
「どうしてくれようか?」
 穏やか、とは決して言えない視線でねめ付け、淡々と答えるショウに、少年はゴクリと生唾を飲み込むしか出来なかった。
 少年は己の不運を呪った。
 今までだって結構危険と隣り合わせの生活をして来たけれど、こんなに恐怖を感じた事は無かった。
 人を殺す事に、何ら躊躇しない男を間近で見て仕舞った以上、多分自分に明日は無いだろう。
 あの瞬間、本気でそう思ったのに。
 何故か理由は知れないが、目前に在るこの男は自分を直ぐに殺すつもりは無いようだ。
 だとしたなら生き延びたいと少年は思う。
 その為なら、何だってしようと決意したとしても誰も少年を責めたりはしないだろう。
「オレ、何でもするから…だから…」
「助けろ、と?」
 思わずショウは唇を歪めた。
 暗い眼差しで少年を見下ろし、低く呟く。
「…そのためなら何でもする、と?」
「あ、ああ!」
 少年は必死で頷いた。
 そんな応えにショウの脳裏を最低な考えが走り、無意識に眦を引くと言葉を紡いでいた。
「お前の命はお前自身で贖うと言うのだな? いいだろう」
 唸るように、ゾッとする程、冷たい声音で。
「たった今からお前は、今までの名も人生も無くなった。有るのは『エイジ』と言う名前だけだ」
 それ以上でもそれ以下でも、無い。
「わ、解った…」
 少年は律義に応えた。

 ショウは少年を『エイジ』と呼ぶ。
 その意味するところは、唯ひとつ。
 本当のエイジに危害が及ばないように、偽物を傍らに置く事だ。
 ショウにとって幸運で有り少年にとって不運だったのは、少年がエイジに瓜二つであったと言うことだ。
 ショウが少年を『エイジ』と呼べば、己を暗殺組織の一員にと望む輩を翻弄出来るだろう。
 例え、それが一時的だとしても。
 それで十分だとショウは思った。
 何れ本当の、彼にとって何より愛しいエイジは強くなるだろう。
 ショウの教えた事をひとつひとつ習練し、自分で利点を伸ばし欠点を克服して行けば、必ず強くなる。
 ショウには解っていた。
 エイジはショウを越える器の主だと言う事が。
 何時の日にか、エイジが誰にも負けない強さを得た時、あの闘神大武会を主催する組織の目が及ぶだろう。
 自分を組織に組み入れようとしたように。
 その日まで、組織の目をごまかせればそれで良い。
 そう思い至ったショウは、この少年を鍛えようと決めた。
 エイジのために。
 エイジのためだけに。
 自己満足も多分に絡んでいるのは十分に自覚している。
 エイジとまるで変わらない、兄の目から見ても錯覚する程良く似た少年を身代わりにしているなど。
 ショウの言葉には温もりなど全く伺えなかったけれど、少年は逆らう事無くショウに応える。
 己の生命を自ら贖う事を担わされた少年には、他に出来る事は無かったのだ。


「飛昇斬ッ!」
 エイジの必殺の技が、迫り来る暗殺者に炸裂する。
 まともにそれを食らった敵対者がもんどり打って倒れ臥す。
「やった!」
 歓喜の声を上げたエイジが気を抜いた一瞬の隙を狙って、倒れたはずの敵対者が突然上半身を起こし、銃口を向けて来た。
「うぁッ 」
 硬直したエイジの背筋を冷や汗が流れ落ちた時だった。
「烈空斬」
 鋭い気弾が二発、敵対者に襲いかかったのは。
 悲鳴を上げる事無く敵対者の生命が失われ、死体の脇にショウが厳しい面持ちで立って居た。
「言った筈だ『最後まで決して気を抜くな』と。お前は何を聞いていたのだ」
 相手は命を狙って来て居る。
 だと言うのに、息の根が止まっていることも確かめずに勝ち誇って油断するなど、愚の骨頂だ。
 ショウの冷たい声にエイジは項垂れる。
 最近になって技が出せるようになって、浮かれて居たことは否めない。
 でも、もう少し優しい言葉を掛けてくれてもいいと思う。
 それを口にする事をエイジは許されてはいなかった。
 死にたくなければショウに従わなければならないのが辛くないと言ったら嘘だ。
 けれど、何年も一緒に暮らしている内にエイジは次第にショウに魅かれて行く自分を自覚してしまっていた。
 たまに、で良い。
 優しく抱き締めて欲しい。
 労いの言葉を掛けて欲しい。
「…聞いているのか 」
 ショウの鋭い叱咤の声が聞こえたと同時に、乾いた音が軽い衝撃と共に己の頬で鳴ったと理解したエイジは地面に倒れ臥していた。
「あ…」
 呆然と、間の抜けた声を漏らしたエイジの着衣に手を掛けたショウが、
「言っても解らぬなら、身体に教えるしか有るまいな」
 冷たい口調で言って退ける。
 瞬間、エイジはギクリと身を硬くする。
 信じられない、と言った顔がショウを見上げた。
「こ、此処で?!」
 こんな所で。
 直ぐ脇に死体が転がっているような、こんな所でなど嫌だと言う間も無くエイジの身体が強引に押し開かれる。
「う…あぁ…」
 ベッドの上でさえ、優しいとは言えない行為を強いられていると言うのに。
 自らが屠った物言わぬ物体の、血臭が漂う場所でのそれは、苦悶しかエイジに与えない。
 初めてのときから身代わりでしかなかった。
 あの時。
 身を裂かれ涙に咽ぶ少年を掻き抱き、酷く優しい声で『エイジ』と、囁いた。
 あんなに優しい声は、未だに聞いたことが無い。
 恐らく、エイジが耳にする事は生涯無いだろう声音。
 その時は胸がチクリと痛んだ程度だった。けれど、今は嫉妬に身が焦がれてしまっている。
『エイジ』と言うのが何処の誰なのか、エイジには伺い知れないの  だけれど、恐らくは己と同じ顔をしているのだろうと推察して堪らなく悔しかった。
 それは、憎悪の感情にも似ていた。
『エイジ』と同じ顔をしていなければ、多分今の自分と言うものは無いのだと知り尽くしているからこそ。
 エイジのそんな気持ちなど、ショウが預かり知らぬと言う現実が切ない。
「…くぅッ…」
 無理な体勢で突き上げられ、悲痛な呻きを漏らした瞬間。
 エイジの体内の奥深くで熱い放流が迸る。
 幾度か深く息を吐き出し、乱れた呼吸を整えたショウがエイジから離れ、汗で張り付いた髪を撫で上げ身を起こす。
「行くぞ」
 身支度を整え端的に言って退ける支配者に、逆らう術を持たない少年の切なく苦しい応えが返る。
「はい…」
 何時迄続くのだろう。
 こんな日々は。
 どうしたら抜け出せるのかが解らない。
 何時の日か終わりを告げるのだろう、と霞む意識で漠然と思考が過った。
 きっと、そんなに遠い日では無いような気がする。

 エイジがのろのろと身支度を整えている間、ショウは彼方をぼんやりと見つめている。
 また、あの『闘神大武会』が近日中に執り行われると言う噂を耳にした。
 この所の秘密結社の動きが活発なのは、多分そのせいなのだろう。
 かつて雌雄を決した男が、また愚かにも強者を募っているのだろうと思い至り、ショウの端正な面に苦渋が覆う。
 そのせいで彼は一所に居られなくなり異邦人などと言う有り難くは無い俗称を得てしまったのだ。
 暗黒の組織などの思い通りになど、させたくは無い。
 出来るなら、大会そのものを叩き潰したい、と彼は思っていた。
 否、出来ない事も無いだろう。
 自らの手で、十分世界に通用する武道家として育て上げるに至った存在が、ここに居るのだ。
「エイジ」
「はい」
 立ち上がり、襟元を正したエイジは彼方を見つめたままに己を呼ぶショウを見上げる。
「行くぞ」
 改めて言われて、エイジが怪訝な面持ちで首を捻る。
「何処に?」
「闘神大武会を、叩き潰しに」
 まるで今からピクニックにでも行くとでも言うような口調でショウはあっさりと応えた。
act.3 エイジ


 荒い息遣いが、空間を支配する。
 傷だらけのエイジの、その目前に在るのは、彼の生涯最大の好敵手。
 世界各地を冒険していたエイジの元に、何処から届けられたのかある大会の招待状を受け取ったのは、ほんの一月程前の事だった。
 それは、闘神大武会の招待状。
 見覚えの有る封書を手にした瞬間、エイジは逸る気持ちを懸命に抑えながら、ここに来た。
 その封書は、彼の兄を行方不明にしたものだ。
 直感的にエイジはそう思った。
 だから、得体の知れない組織の主催で有ろうと無かろうと何ら構わなかった。
 だが。
(カイン…っ!)
 まさかこの大会に、彼が来るとは思いも因らなかった。
 闘技場に入った瞬間から、エイジはどんなことが有っても負けられないと意識を引き締め闘いに身を投じた。
 カインとの最初の刃の噛み合いの直後。
 エイジの意識に火が灯った。
「デッドリーレイズ!」
 一呼吸置いた直後、独特の掛け声を発し、技を仕掛けて来るのは、カインだった。
 裏の世界で、ストームの俗称でまかり通る、とてつも無い殺し屋としての腕は、エイジの想像を絶していた。
 忽ち、全身を傷が覆って行くのを止める事も出来ない。
 それでも。
 負けない。
 負けられない。
 負けたくない。
 あの夜の借りを、返せないでは居られない。
 手ひどいダメージを受けながら、エイジは意識を集中させる。
それはまさに手負いの獣。
 優勢を誇っていたカインが、ギクリとする程の闘気がエイジの全身を纏ったその直後。
「百鬼猛襲剣ッ!」
 煌く闘気を迸らせたエイジが疾風の如くに猛撃した。
「ぐッ!」
 咄嗟に防御体勢に入るが間に合わず、カインはエイジの秘伝必殺技の前に成す術を失う。
 エイジの止めの飛昇斬に吹き飛ばされ、仰向けに倒れ臥したカインは、敗北を喫したのであった。
「…やっと『あの時』の借りを返せたな」
 乱れる息のまま、エイジが鮮やかな笑顔を浮かべてカインに手を差し伸べる。
「…どうして、手を…」
 手を差し伸べられる?
 オレがお前にした事は、許される事じゃ無いのに。
「だって…俺は、お前が訳も無くあんな事をする奴じゃ無いって知って居るから…」
 でも、悔しくてたまらなかったのは事実だ。
 その上あの時は、本当に自分は子供だったから。
 だから、お前の気持ちを察して遣る事も出来なかった。
「きっと…俺以上にお前は苦しんだんだろ? 今なら解るよ。お前の気持ちが…」
 エイジの真面目な応えに、カインは愕然と見る間に表情を強ばらせて行く。
「それに、あの時…お前はちゃんと言ってくれたのに…『好き』だって。俺はそれに未だ応えて無いぜ?」
 だから負ける訳にはいかなかったんだ。
 エイジの照れたような呟きは、仕舞いには消え入りそうなものになっていたけれど、カインにはしっかりと届いていた。
「…負けたよ、エイジ。そして…ありがとう…」
 カインは、そこまで言ってからやっと、差し出されたエイジの手を握り返した。
「それで、エイジ。お前の気持ちは…?」
「大会に優勝したら、教えて遣るよ」
 ニコリ、と満面の笑みでエイジは言った。
「そりゃ…無いだろ?」
 カインが苦笑を漏らす。
「俺はな、そこまで考えが行き着くまでに4年もかかってるんだぞ? 少しは我慢しろよ」
 笑ってウインクするエイジに、口許を歪めてカインは頷いた。
「解ったよ、エイジ。だから、絶対に優勝しろよ?」
 出来るだけ早く聞きたいから。
「調子のいい奴…」
 呆れた、けれど決して不快では無い表情でエイジは呟くのだった。
 その、目許が微かに赤らんでいるとカインは気が付いているだろうかと、こっそりと思いながら。

「あれが…、あの男が『エイジ』…」
 闘神大武会の参加者が控る部屋で、低くエイジは呟くと視線を傍らで長剣の手入れをしているショウに向けた。
「そうだ。あれがこれからお前の闘う相手だ」
 ショウは振り返る事なく応える。
 その態度に、先程まで大会の模様を映し出していたモニター画面に思わずエイジは視線を向け直す。
『エイジ』と自分はあまりにも酷似していた。
 解ってはいたけれど、あそこまで似ているとは思いも因らなかったと言うのが正直な感想だった。
「双子だってここまで似ない…」
 率直な感想を無意識に零した時だった。
「勝て」
 突然、ショウがそんな言葉を投げ付けて来たのは。
「え…? だ、だけどアレは『エイジ』だろう?」
 貴方が何よりも慈しんでいるだろう、『エイジ』だろう。
だってのに、何故そんな事を言うんだ。
 エイジが呆然とショウを見つめて困惑の声音で言い募るのに対して返ったのはやはり淡々としたものであった。
「勝って私にお前の強さを見せつけろ」
 ショウのその言葉にエイジはゴクリ、と息を飲み込んだ。
 こんな言葉は初めてで勝手が解らない。
 けれど、滅多に言っては貰えない言葉であるのは確かな事で、とても嬉しかった。
「私が掛けた4年と言う時間を無駄にするな。解ったな」
「はい!」
 ショウの意味するものは解らない。
 解らないけれど、それで良いとエイジは思った。
 今はただ、期待に応えたいと切実に願うだけだった。
 だが。
 ショウの本意は、全く別の所に有った。
 物干し竿の手入れをする、ショウの口許に酷薄な笑みが浮かび上がっていることにエイジは気が付かない。
『エイジ』は、ショウの予想を遥かに上回る成長を遂げていた。
けれど、未だ甘い。
 あの甘さを取り除き、本物の強さを得るためには自分自身と戦うのが最も効果的だと彼は思案した。
 そのための、打ってつけの人材がここに居る。
 尤も、最初からそのつもりで連れて来た訳では無いが。
 まさか『エイジ』が闘神大武会に参戦しているとは思わなかった が、それも無理も無いだろうと思う。
 冒険者としての名を馳せている、ショウの愛しい弟が件の結社の目に止まらぬ訳が無いのだ。
(大きくなったな、エイジ…)
 ショウの胸中に愛しさが募る。
 画面越しではあったけれど、想像通りに育ってくれているのが見て取れて、ショウは歓喜に打ち震えるのを懸命に堪えなければならなかった。
 大会が終わるまでに厄介事を全て片付け「また一緒に暮らそう」と伝えよう。
 長い間不在だった分をきっちりと埋めるために、誰よりも、何よりも慈しもう。
『異邦人』とも『血の天使』とも呼ばれる、冷酷な男の真意は、ただそれだけだった。

 ショウの言葉を信じて疑わず、エイジは勇む。
 何も知らない本当の『エイジ』との戦いに挑むべく。
 激闘の地へ、と。
END
古い…。
古すぎる短編で涙ちょちょ切れます(笑)
プレステが出てコレが発売されて直ぐ嵌まって、遣り倒した挙げ句、腐女子大暴走本出したのでした。
実はコスプレも、やったのよね。
ノーマルも黒も。
ほんっとにエイジらぶらぶでした(笑)

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