『SOMETHING IMPORTANT』 〜ver.A : I can't Live Without You〜 二階堂ぢゅり |
抜けるような空に、その蒼を吸い込んだ雲がふわふわと漂っていた。 爽やかな風が、木々をさえずらせながら南へと走り抜けてゆく。 若葉の隙間から射す光が、彼に揺らめく斑模様の陰影をつけていた。 「陛下……?」 極力足音を立てないように近づいて、タジは声を掛ける。 目の前で無防備な姿を晒す彼の人に―――。 大樹の根元に腰を下ろし、太い幹に体を預けて彼は眠っていた。 傍らに神剣を立てかけてはいるが、不用心極まりない。 ヴィーデルンの王宮から程近い森、周りは全て自国の拠点。とは言え、不用意に一人で出歩いたり、増してやこんな所で眠りこけていい人ではないのだ、この人は。 (…陛下らしくないな…) 決して他人に心を許さない彼が、例え自国の王宮内であろうと――― いや、王宮内であるからこそ、こんな風に誰かが側にいる事にも気付かない程 睡臥してしまうとは考え難いのだが……。 「…サリューンさん…」 膝をつきながら、タジは彼を呼ぶ。 さらさらと流れる銀色の髪が眩しい。 光の粒子が彼の頬に零れてゆく、その様はまるで一枚の完成された絵画のようだ。 思った以上に年相応の寝顔を見つめ、タジの口唇から感嘆の溜息が洩れた。 (…綺麗だなぁ…) きらきらと光に映えるプラチナブロンドの輝き、整いすぎる感のある端正な面立も、彼の内面から滲み出る気品を引き立てている。 (……なんか、ドキドキしてきた…) きっと誰も知らない。 サリューンがどんな顔をして眠るのか。 幽かな寝息がどんなに柔らかいか。 サリューンすら知らない、サリューンのこと。 知っているのは自分だけ。 心のどこかに生まれたのは、小さな優越感。 (このまま、どこかに隠してしまいたい気分) そうすれば、何時でも彼を独り占め出来るのに―――。 (…って、なに考えてるんだ、オレ!) 一気に熱を帯びた頬に手を当てて、タジは心の中で焦ったように叫んだ。 しきりにかぶりを振るが、顔の火照りは誤魔化す事は出来ない。 (どうか、サリューンさんが目を覚ましませんように!) こんな顔を見られたら、何を言われるか解ったものではない。 只でさえ、普段からタジをからかうことに喜びを感じているような節があるのだから。 (ホント…イジワルばっか…するんだから…) だけどその笑顔は、まるで雪解けの大地に芽生いた種のように透明で、優しいのだとタジは知っている。 酷く冷厳に思える眼差しが、少し悲しげに伏せられる瞬間があることを知っている。 (だから、好き…) 彼は一国を治める国王にして、世界を治める覇王となるべき人。 何もかもが自分とは釣り合わないかも知れない。 (だけど、好き…) 声も、顔も、その心も、生き方も、全部が好き。 たった2文字の言葉じゃ、もう足りないほど。 「…あなたが、好き…」 耳元に小さく囁きかける。風に煽られた銀糸が頬をくすぐっていく。 心地よさに瞳を閉じる。 「好きです、サリューンさん…」 何度言っても足りない。 どんなに言葉を尽くしても。 (…そう言えば、陛下の気持ちを聞いた事って、なかったな…) 不意にそんなことが脳裏を掠めた。 勿論、言葉として顕さないだけで、 サリューンがタジの事を大切に想ってくれているのは良く解る。 態度や言葉遣い、見つめる眼差し、全てが他の人間に対するものとは明らかに違う。 (陛下の気持ちを、疑う訳じゃないけど…) やっぱり、一度でいいから言葉にして欲しいな…。 赤い顔を更に赤くして、タジは立ち上がろうと眼を開く。 そして、自分を射抜く真紅の視線とかちあった。 「……っっ!!」 条件反射で体を離そうとしたタジの腕をしっかり掴んで、サリューンはクスリと笑みを零した。 「どうした? 百面相はもう終わりか?」 「あ…あ…」 「ん? なんだ?」 硬直してしまった痩躯を強引に引き寄せ、恥ずかしさの余り二の句を継げないタジを覗き込み、 サリューンはわざとらしく問いかける。 「い、いつから…っ」 漸く意味を成したタジの台詞は、 「最初からに決まっているだろう」 事もなげに一蹴された。 (全部、見られてた…っっ!!) 蒼い瞳に滲んだ微かな非難を感じたのだろう、サリューンはちょっと眉を跳ね上げてさらりと言ってのけた。 「お前が、面白い反応をするのでな」 「〜〜〜〜〜っっ!!!」 そう、こういう人なのだ、この人は。 (だからって、ずっと寝たフリすることないじゃないか〜〜〜!!) 羞恥心が爆発した。 「もっ、離して下さいっ!」 突如暴れ出したタジに、サリューンは呆気にとられたように眼を丸くした。 一生懸命サリューンの腕を振り払おうとしているのだろうが、サリューンはビクともしない。 「離して下さいぃ! サ・サリューンさんなんか嫌いですっ!」 耳まで朱に染め上げて、メチャクチャに四肢を動かしながらタジは必死に逃れようとする。 流石のサリューンも、その凄まじさに思わず閉口した。 「…タジ、解ったから…」 「わ・解ってませんっ! サリューンさんなんか……」 興奮しすぎて既に歯止めが利かなくなったタジを、サリューンは溜息混じりに見下ろし、徐に抱き締めた。 「…!」 途端、ピタリとタジの暴走は止まる。 「私が悪かった…。だから落ち着け」 陽溜まりの匂いがするタジの髪に顔を埋め、サリューンが穏やかに話しかける。 その声音が、タジの心に染み込んでゆく。 緩やかに。 「…サリューンさんって、ズルイ…」 (オレが、サリューンさんの笑顔とか、優しさに弱いこと知ってて…わざとやってるみたいだ…) いつも、いつも、悔しいくらいドキドキしているのに。 今も、心臓が破裂しそうに苦しいのに。 サリューンはちっとも変わらない。 (オレひとり…バカみたいだ…) 自分だけが、一人相撲をしているようで、辛い…。 「…タジ?」 急におとなしくなったタジを訝ったのか、サリューンが様子を見ようと体勢を変える。 だから決して顔を見られないようにサリューンの胸に埋めて、すがりつくように背中に両腕を廻した。 「…なんで…」 「?」 「なんで、いつもそんな風に余裕でいられるんですか…」 サリューンの上着をわし掴んだ指に力が篭る。 幾筋ものしわが一瞬にして走っていく。 「オレは…オレだけ…あなたの言うことやすることに、いちいちドキドキして…そんなのって…不公平だ…」 若葉がカサカサと素朴な音で鳴く。 まるでタジの心を代弁するように。 「…オレ…時々、恐くなる…」 「……」 サリューンを好きになればなるほど、際限なく深くなっていく『不安』と言う名の海。 彼に相応しくないかも知れない。 気持ちがきちんと伝わっていないかも知れない。 本当は、自分が思うほど想われていないかも知れない。 それでも泣きたくなるくらいサリューンが好きだから。 ――もう引き返せないところまで来てしまったから…。 「…サリューンさんには解らないんだ…こんな気持ち…」 小さな発見が凄く嬉しかったり。 2人で過ごす何もない時間が何より大切だったり。 自分に自信なんて持てなくて不安で仕方ないのに、どうしても好きにならずにいられない、そんな気持ちなんて―――。 頭上で、サリューンが深い息を吐いた。 身体を戒めていた腕は解かれ、奇妙な解放感がタジを襲う。 「…お前は、そんな風に感じていたのか…」 落胆したような、困惑したような――微妙な感情が入り混じった呟きが聞こえた。 「言葉にしなくても、解ると思っていたんだがな」 寂しそうな響きに、タジは弾かれたようにサリューンを見上げる。 そこに―――切なげな光を灯した、2つのルビーが煌いていた。 「サリューン…さん…」 トゲが刺さったように、胸が痛んだ。 タジの頬を、サリューンの両手がそっと包み込む。 手のひらの温もりがじわりと伝わってくる。 「…言葉がなくても、解るけど…」 サリューンの手に自分の手を重ねて、タジは告げる。 「言葉にして欲しい事もあるんです…。オレ…そんなに強くないから…解っていても、不安で……」 すると、サリューンがタジの手を取ってそのまま自分の上着の中に滑り込ませた。 「…解るか…?」 素肌を隔てるものは薄い衣服だけ――― タジの手を激しく叩くのは、サリューンの鼓動―――。 「…ドキドキ…してる…」 「お前といる時は、いつもこうだ…」 「サリューンさん…」 「お前が笑ったり、怒ったり、泣いたり…違う表情を見せる度に、どうしようもなくお前に惹かれていく――」 鼓動の音が、サリューンのそれと響き合う。 光が視界の隅で七色に揺らめいた。 「…お前への気持ちは、言葉では言えない…。 言ってしまえば、色褪せるような気がしていた。 …だが、それは間違っていたのだな」 タジが小さくかぶりを振る。 もう、充分だから―――そう訴える蒼眼に、サリューンは微笑で応えた。 「一度しか、言わない」 真っ直ぐに見つめ合った瞳は、神秘的な輝きを纏う紅の瞳。 この世の何にも代えられない、誰よりも大切な――。 ゆっくりとサリューンの顔が近づいてくる。 タジはきゅっと眼を閉じる。瞼の裏で、彩とりどりの光の粒が舞い散った。 頬を掠めて耳元にかかる、熱い吐息―――。 「…いつか、また聞かせて貰えますか?」 サリューンの隣で背を伸ばしていたタジが、流れる雲を眼で追いかけながら零した。 「一度だけだと言わなかったか」 素っ気ない返事だけを残して、サリューンは歩き出す。 銀色の髪に風が絡んでいく。 「…イジワル」 慌てて後を追いながら、タジは頬を膨らませて不満を示した。 それを横目に眺め、サリューンは意地悪い笑みを浮かべる。 「そのとおりだ、知らなかったのか?」 「いーえ! 陛下のことなら、陛下以上に知ってますから!」 すねた物言いに「ほう…」と短い相槌を打って、 サリューンは低い笑い声を漏らした。 「それは興味深いな。是非聞かせて貰いたいものだ」 「イジワルな人には、教えません!」 つん、とそっぽを向いたまま、タジは言い切った。 サリューンは嘆息し、やがてその瞳に優しい彩を滲ませてタジに声をかける。 「…そろそろ戻るか」 自然に差し出された手を、タジも自然に受け止める。 それは、呼吸をするのと同じくらい、ごく自然で、当たり前のこと。 「…ずっと、忘れませんから」 繋いだ指先から流れてくる体温を実感しながら、ふとタジが呟いた。 「早く忘れてしまえ」 前を向いたまま、サリューンが言う。 「…でないと、もう言えなくなるだろう」 白銀の光が踊る背中を見やってタジは笑いを噛み殺す。 「…ホントに、イジワルなんだから…」 満面の笑顔でタジはボヤいた。 (忘れられる訳、ないじゃないですか…) それを紡いだ口唇の動き、息遣い、声の響き、台詞の一語まで、全てがタジの胸に生きる宝物。 永遠に消えることのない記憶。 王宮の陰が木々の向こうに見える頃、 空には淡いオレンジ色のヴェールが拡がり始めていた。 [END] |