序.

 幾多の兵士を背後に率い、騎馬の軍勢が街を通り過ぎて行く様を、滅多に見られない真紅の髪と澄んだアイスブルーの瞳に彩られた、未だ随分と幼さの残る面差しの少年が見送る。
「ねえドレン。あれが、レイガルド帝国?」
大きな瞳を輝かせ、少年が傍らに立つ初老の域に達そうとしている人物に尋ねる。
「…そうだ。今、大陸で最も強大な力を誇っているレイガルドの中でも、最強と噂される騎馬軍団…青竜騎士団だ」
ドレンと呼ばれたその人物は鋭い眼差しで街中を闊歩して行く軍勢を見遣りながらに頷く。
「青竜騎士団…?」
少年がその名を繰り返した時。
彼の前を、軍勢の中で一際浮き立つ存在が通り過ぎようとしていた。
見事な漆黒の駿馬に騎乗したその存在は、黄金の髪を煌かせた、漸く青年に達そうかと言う程に若い、けれど他の兵士とは明かに一線を喫しているだろう人物だった。
その若者の紫に煙る瞳と、少年の視線が不意に交わる。
(…誰だろう? でも、凄い綺麗な人だな…)
少年は、その若者の紫色した瞳から目が離せないでいる事を自覚出来てはいなかった。
その若者の口許に、酷く穏やかで優し気な微笑みが微かに浮かんだ時だった。
若者より前方に在った老齢な指揮官が駆け寄って来たのは。
「レオン様!」
「何事だ?」
レオン、と呼ばれた若者が先程までの笑みを崩し、指揮官をねめ付ける。
鋭い視線と、凜とした口調で。
暫く、少年の耳に届かない密やかな会話が交わされたかと思った瞬間、レオンは手綱を引き絞り駆け抜けて行ったのだった。
「…レオン、て言うのか…あの人…」
何だか頬が熱い気がして、少年はコシコシと手の甲で己の頬を擦る。
「知ってる? ドレン…」
そう問いかけながら傍らに在るドレンを見上げた少年は息を飲み込んだ。
彼の表情に険しさが浮かんでいたからだ。
「ドレン…?」
「あれが、レオンか…。あの若さで大陸全土に名を馳せしレイガルド帝国の切り札…」
ドレンの独り言のような呟きを耳にした少年が驚きを面に浮かべる。
「凄い人なんだ…」
滅多に他人を褒めたりなどしないドレンが、怖い程の眼差しでレオンが駆け去るその後ろ姿を見送るなんて。
少年には驚きでしかなかった。
綺麗なだけでなく、強く、そしてドレンに認められる程の存在だなんて。
少年にとって、この出会いは衝撃だった。
「また…会いたいな…」
ドレンに聞こえないように、少年はポソリと呟く。
あの微笑みが、また見たい。
とても綺麗な、あの微笑みが。
そう思っただけで、少年の鼓動がどんどん早くなる。
どうしてなのか分からないのだけど、自分の心臓が早鐘のようにドキドキと高鳴っていた。
act.1

この時代。
世界は戦いの渦中に在った。
大陸各地を旅して来た若者にとって、心休まるような場所など何処にも無く。
故に、身体も心も疲弊し尽くしていた。
若者の名は、エルウィン。
大陸各地の様々な箇所を一人気ままに旅する冒険者、と言うのが一応彼が尋ねられる時に応える事にしている通称である。
無論全く目的の無い旅をしている訳では無いが。
彼には、人には言えない―言った所で信用する者など居はしないだろうが―秘密が在った。それ故、風来坊を自称していると言うのが正しいだろう。
旅の目的は、見当も着かない理由。
誰にも言えない、そして、助けて貰う謂れの無い理由なのだ。
だから、疲弊していた。     
頗る健康な肉体と、屈強とも言える精神をもつ若者も、流石に疲労を隠せないでいた頃。
エルウィンは在る偶然からウェスと言う村に滞在する事になったのだった。
それが、全ての始まりだった。


 ウェスの村の宿屋で旅の疲れを癒していたエルウィンは深い嘆息を漏らす。
ここはとても気に入ったけれど、何時迄も滞在する訳にはいかない状況なのだ。
エルウィンはベッドに寝転がり、これからどうするかと思案に暮れて居た。
それには勿論訳が在る。
自分が一所に落ち着けない最大の訳が。
「そろそろ…頃合いかもしれないな…」
独りごちてベッドから降りた時、扉が勢いよく開かれる。
「エルウィン!」
「何だ? ヘイン。そんなに慌てて…」
どうしたんだ。
エルウィンが苦笑混じりに問いかけると、彼がここに滞在する切っ掛けとなった魔道士見習いの少年ヘインは乱れる呼吸を懸命に整えながらに説明する。
彼の幼なじみの少女を狙って、レイガルド帝国の騎士団が攻め入って来たから、助けるのを手助けして欲しい、とまくし立てるヘインに訝しみながらも、エルウィンは頷いた。
剣を手に、宿屋を飛び出したエルウィンは、その時思わず己の目を疑った。
そして。                         
エルウィンは出会ったのだ。
あの、黄金の髪と紫の瞳の、とても美しい存在に。
「 ! 」
そこに在ったのは数人の兵士と、そして騎士の姿。
その中の、たった一人の存在にエルウィンは言い知れない驚きを感じたのだ。
(あれは…レオン!? 何故…?)
どうしてこんな所に、彼の存在が居なくてはならないのか、とエルウィンは愕然と目を見開く。
何故、因りにも因って、たった一人の少女を拉致しようとしている様を見なくてはならなかったのか。
エルウィンが識っている青竜騎士団隊長レオンは、こんな卑劣な真似をする存在では無かった筈だ。
次第に怒りが競り上がる。
「エルウィン…?」
怒りに目許を赤く染めたエルウィンをヘインが呆気にとられた表情で見つめた瞬間。
エルウィンは駆け出していた。
その行く先を遮る兵士の一団を、愛用のミドルソードで忽ちの内に切り捨て、肩で息をしながら彼の存在、レオンの元へと辿り着いたのだった。
「…見事な…」
指揮下の兵を切り結ぶ鮮やかな剣捌きに見惚れたのもつかの間。
レオンは己に対峙する若者を馬上から見下ろした。
鋭い視線のレオンに圧倒される事も無く、エルウィンは声を張り上げる。
「何故だ? 青竜騎士団が何故たった一人の女性を狙う!」
強さだけで無く、悪名高いレイガルドに於いて騎士道を重んじていた筈の青竜騎士団が、何故こんな事をするんだ。
エルウィンの、悲痛な叫びの意味を理解出来ない、レオンの副官レアードが反論して来る。
が、エルウィンの耳には届かない。
そのアイスブルーの瞳は、レオンから僅かに逸れる事も無く、責めるような眼差しを投げ付けていた。
「お前は…」
まるで炎の如き珍しくも鮮やかな真紅の髪の主を、レオンは覚えていた。
彼の心の片隅に甘酸っぱい感覚が蘇ろうとしていた。
しかし、今は自分の感情に浸って居る暇など何処にも在りはしないのだ。
だからこそ、自分を叱咤するように言い放った。
「…何があろうと、この作戦は成功させねばならんのだ。悪いが貴様には、ここで死んで貰おう…」
レオンが剣を引き抜き構えると、愛馬の騎首をエルウィンに向け直した直後。
二人の剣が咬み合い、金属が繰り出す鈍い音を周辺に響かせた。
幾度目かの鍔ぜり合いの後、どうッ、とエルウィンの身体が数メートル後方に投げ出される。
大陸最強と称される実力は、噂違わぬものであり、残念ながら今のエルウィンはレオンの足元にも及ばなかった。
「ぐ…ッ」
苦悶の呻きを漏らし、愚鈍な動きで立ち上がるエルウィを、けれどレオンは称賛の眼差しで見遣った。
己の攻撃を受けて立ち上がった者は、未だ唯の一人として居はしなかった。
それをこの若者は、成し遂げる。
だからレオンは称賛せずにいられなかった。
レオンの瞳に穏やかともとれる揺らめきが浮かぶ。

ずっと以前、強引に記憶の片隅に追いやった感情が蘇る。
それはもう大分前、とある国をレイガルドの占領下にするべく出撃したおりに通過した、小さな街での出来事。
珍しい真紅の髪と、印象的なアイスブルーの瞳の少年が己を見つめている。
幼い眼差しに熱を感じ、戦いに出向くと言う緊張と嫌悪に身を支配されていたレオンの心に、少年の眼差しは強烈過ぎて。
だから、微笑んだ。
少年がパッと鮮やかな笑顔を浮かべてくれた。
唯、それだけの記憶。
その、少年と目前の剣士とが重なる。

間違い無い。
間違えようが無い。
だのに、敵なのだ。
自分に向かって剣を向けて来た、敵なのだ。
それが口惜しく、そして、哀しい。
少年―目前の剣士―が知りよう筈も無いのだが、レオンはあの時生まれて初めて恋慕と言う感情を知った。
無論、それは誰かに明確に語ることも無く、ずっと心の奥に秘めた想いだ。
名も身の証しも知らぬ通りすがりの少年は、帝国最強を謳われる騎士が強い想いを秘めた唯一の存在。
けれど。
その少年の身辺を調べると言う事を、レオンは敢えて由とはしなかった。
レオンが自ら選んだ人生は、血塗られた路。
己がどれ程に汚れ、汚れようとも構わない。
願うのは、大陸から戦を全て無くしたいと言う事実。
だから、殺したのだ。
己の感情を。
だと言うのに運命は、こんな辺境の村でこんな再会を果たすに至らしめた。
ならばせめて一思いに、苦しませる事なく逝かせようと結論を出したのに。
彼の少年はレオンの想像を越えた腕の主だったなど、一体何の皮肉だろうか。
困惑に意識を支配されていたレオンは、だから気が付くのが遅れた。
「レオン様ーッ!」
本陣にリアナと言う少女の連行を命じたバルドーの、凄まじい絶叫にレオンは漸く我にと返った。
(意識を…取られ過ぎたか…)
迂闊さと己の未熟さに表情を歪め、彼は決意した。
こうなれば自分が動く他は在るまい。
彼の腹心であるレアードと共に何としてもリアナを連れて帝都に戻らねばと決意したレオンの不運はしかし、未だ終わってはいなかった。
サルラス領主が、予測より早くに到着してしまったのだ。
分が悪すぎると判断し、レオンは撤退を命じるしか出来ない自身に悪態を付くしかなかった。
駆け去って行くレオンと、やっと立ち上がったエルウィンの視線が偶然にも一瞬交差する。
だが、掛ける言葉を二人は互いに持たなかった。


一先ず戦いを終えたエルウィンは、領主の好意で館に辿り着いたその夜、一人ぼんやりと星空を眺めていた。
たった一日で様々な事が有り過ぎて、身体も心も疲れ果てているのに、少しも眠くない。
「…どうして…だ…?」
何故、こんな事になってしまったのだろうか。
無意識にエルウィンの唇から吐息混じりの呟きが漏れる。
ずっと焦がれて来たのに。
初めて出会った幼き日以来、ずうっと忘れたことなんてなかったのに。
ドレンと旅した日々の中でも、そして一人で旅しなくてはならなくなってからも、青竜騎士団の、レオンの事を耳にしない時はなかった。
凛々しく、雄々しいレイガルドの騎士の中の騎士と謳わるレオンの話を聞く都度、エルウィンの胸は躍った。
なのに。
7年の時間の経過は己の幼い日々の中で培って来た想いを粉々にすると言うのか。
これが現実なのだとしたら、運命の女神はとても残酷だと思う。
毅然とした武人が、戦いの日々を繰り返す内に己の腕を過信し歪んで行くのを幾度も目にしては来たけれど、絶対にレオンだけは違うのだと信じて来たのに。
その気持ちが裏切られたようで堪らない。
泣き出したい感情を押さえ付けるのが、今の自分に出来る精一杯だなんて、思わず笑ってしまいそうだ。
「何かの…間違いだよな…」
それでも唇から零れ落ちる呟きは、未だ信じ切れないと言う想いを語っていた。
何れは分かるだろう。
何が正しく、何が間違っているのか。
それまで、エルウィンに出来ることは、唯生き延びると言う現実のみだった。


戦いは、次第に苛酷を極めて行く。
何時の間にか、自身はレイガルド帝国そのものを相手に―好むと好まざるを得ないままに―戦いを続けて行く事を強いられていた。
最初は唯、リアナを守りながら光の大神殿に向かうのを目的としたつもりの旅だったのに、だ。
自然に仲間も増えていた。
無名な者から大陸全土に知られているものまで含め、錚々たる面々がいつの間にかエルウィンを囲んでいる。
それは構わない。
エルウィンの心境を複雑にしているのは、彼がひた隠しに隠して来た「己がバルティア王家の末裔である」と言う生まれを、あっさりと知られたと言うことと、何時の間にか自身が選んだ訳でも望んだ訳でも無いのに状況が自分を中心に廻り、反乱軍こと光輝の軍勢の旗頭に仕上げられている現実だった。
それが納得出来ないだけではない。
何故、帝国の行動が絶対悪と光輝の軍勢は断定するのかが、解せないのだ。
確かに闇と手を結んだ帝王や帝国を「悪しき存在」と見なすのは容易い。
しかしだ。
光輝の末裔だけが絶対に正しいのだろうか。
エルウィンには、到底そうは思えない何かが心の片隅から拭い取れない。
戦い抜く現実の士気に拘わるから、口に出しては言えないが。
そんな疑問を内に秘めたエルウィンに、再び運命の女神の気まぐれな微笑みが向けられるたのはそれから直ぐの事だった。
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