ずっと。 そう、ずっと以前から、想い続けて来た。 唯一人の存在を。 幾度となく感情を抑えに抑え。 堪え続けた、唯ひとつの想い。 唯ひとつの願い。 叶うなどとは思いもよらなかった。 決して。 だから、叶ってしまった今。 彼は自分の感情を僅かに持て余していた。 どうしたら彼の存在をもっと慈しめるのか。 鮮やかな笑顔を向けてくれるのか。 解らなかった。 どうすればいいのか、が。 そんな事は、誰も教えてはくれなかった。 act.4 かつての仲間であった者たちと、好むと好まざる無く戦わねばならない状況を選んだのは紛れも無く自分自身。 傷を負うたび、負わせるたびに。 エルウィンの面に苦悶の影が差す。 それを目にする都度、レオンは労りの言葉を掛けた。 そうする事で、少しでもエルウィンの重荷を軽く出来るだろうとの思慮である。 それが理解(わ)かるから、エルウィンの陰りが薄れる。 微かに。 ほんの微かに、ではあるけれど。 レオンの言葉は確かにエルウィンの心を救う。 唯ひとつの願い。 誰の、どんな言葉より、レオンの微笑みはエルウィンを救う。 見つめ合うだけでとても嬉しいなど、まるで子供じみているようでおかしいのだけど。 エルウィンは、それで十分だった。 振り返れば必ずそこに居る。 誰より何より大切な、エルウィンの総てがそこに居るのだ。 ライリム渓谷を抜けた最初の小さな村で、シェリーとの戦いを終えたエルウィンは、村人が脱出し人気の無くなった村で暫くの休息を取ることを提案した。 「ここまで休み無しの強行軍で来たからねえ、ここらで身体を安める事に、あたしは依存は無いよ」 ライリムの吊り橋での戦いで、援軍として参戦して来た女指揮官、氷竜将軍イメルダが戦いの為にか、疲れきった表情で同意を示す。 「そう言って貰えると助かるよ、イメルダ。それからバルガス、貴方も休んでから都に戻る方が良いと思う」 何事も無く帝都に戻れるとは到底思えない状況を思って、村でのシェリーたち反帝国軍との戦いの途中、援軍に来てくれた炎竜将軍バルガスに、エルウィンは真顔で言った。 「未だ付近に反帝国軍勢が潜んでいないとも限らないのだから…」 エルウィンの言葉にバルガスが反論のあろう筈も無かった。 先程の戦いで、自分は言うに及ばず、指揮下の兵たちは疲弊している。 帝都への帰還途中、もしもの事が有っても問題が有ろう。 「うむ、そうさせて貰おうか」 バルガスの応えに、帝国軍は名も知れぬ小さな村で夜を明かすことになり、糧食の担当を担った者たちが慌ただしく動き始める。 それを目で追っていたエルウィンに歩み寄ると、レオンはその耳元に小さく囁いた。 「未だ動けるようなら、付近の哨戒に行かぬか?」 「そうだな」 今先、自分でも口にした通り、この近辺に反帝国の輩が潜んでいないとは断言出来ない。 レオンの申し出はエルウィンには正直言って有り難かった。 動くのは小人数が望ましい。 だが、下手な者を選ぶ訳にはいかない。 それに、出来る事なら他の面々には休んでいて貰いたいとエルウィンは思っていたから、レオンの申し出は絶妙のタイミングでも有った。 「ヘイン、ロウガ。俺たちちょっと出掛けて来るよ」 エルウィンは建物の壁に寄りかかって生欠伸を咬み殺していた二人にそう声を掛けた。 「何処に行くんだい?」 「ちょっと、な。何か在ったら知らせてくれよ?」 口許に微かな笑みを浮かべるエルウィンに、何か言おうとしたロウガの腕を唐突にヘインが引っ張った。 「ロウガ…野暮だよ、野暮」 こっそりと耳打ちされて、ああ、と彼は頷いた。 「ゆっくりしてこいよ」 そんなロウガの声にエルウィンは苦笑すると軽く片手を上げる事で応え、レオンと共に立ち去って行った。 「ったくロウガは無粋なんだから。あんなに露骨に言う事ないだろ?」 「…露骨だったか?」 「だったよ!」 二人がいなくなったので、ヘインは噛み付くように言い放つ。 「おやおや、ぼうやたち。何を怒鳴ってるんだい?」 目一杯のヘインの怒鳴り声に、何事か、とイメルダが顔を出すと訝しむように問い掛けて来る。 「何事だ? 一体…」 イメルダに続いてバルガス同様に疑問を口にすると、 「だってさあ…。ロウガが露骨な事言うもんだから…」 ヘインは少し困ったように言葉を濁す。 「俺はそうは思わなかったけどなぁ…」 悪びれずに呟くロウガへ、ヘインは唇を突き出した。 「折角7年越しの恋が実ったんだよ、あの二人は。余計な事は言わなくたっていいんだよ!」 ヘインの噛み付くような声音に、イメルダは嘆息を漏らした。 「そりゃあ…レオンの事かい?」 「だよ」 ロウガが頭を掻きながら頷く。 「成る程ねぇ…」 とっくに姿の見えなくなっている、レオンとエルウィンの出掛けた方向へ視線を巡らせ彼女は納得の呟きを零した。 「ロウガが悪いよ」 「…以後気を付ける…」 ロウガはバツの悪気な苦笑いを浮かべた。 「…何の話だ?」 一人話の見えないバルガスが、困惑を露にしてイメルダを見れば。 彼女は艶やかに笑んでいた。 「レオンがずっと、秘めた想いを抱いていた事くらいは、あんたも知っているだろう?」 「ああ」 レオンが、ずっと以前に心奪われた存在がいるらしい、と言う話はバルガスも聞き及んでいた。 ただ、想いのみを募らせる存在が在るのだ、と。 誰がどのように問い詰めても、レオンは頑なに口を閉じ決して語ろうとはせず。 「それが…?」 「その、相手というのが、エルウィンだったと言う訳さ」 言われた途端。 バルガスの思考は一瞬、活動を停止しかけた。 イメルダは今、何と言ったのか。 バルガスの表情から全てを察した彼女は静かに頷いて言葉を紡ぐ。 「あたしだって最初は驚いたよ。だって相手が選りに選ってエルウィンだったなんてねえ」 無敗と称された青竜騎士団を、そしてバルガスの炎竜兵団をも敗北させるに至らしめた光輝の末裔。 その存在とレオンが、一体何時そのような接触を持ったと言うのか。 接点が見出せず、バルガスは頭を振った。 「出逢ったのは7年前、なんだってさ」 バルガスの考えが手に取るように分かるイメルダが静かに頷くと応えを返す。 「7年前…」 レオンが青竜騎士団を任された辺りか。 唸るような声を漏らすバルガスに彼女は笑う。 「あんまり深く考えない方がいいよ。他人の恋路なんだからね?」 二人の関係を知った最初は、あまりの事にどう反応していいのやら彼女自身困惑したものだったが、最近ではバッチリ応援してやろうと言う気になっていたりする。 「うむ…」 その、気持ちは分かる。 分かるのだが。 剣の腕に冴え、思慮深く、他人を思い遣る高潔なる精神の持ち主。 バルガスの認識するレオンと言う男は、完璧な程に完璧な騎士の中の騎士である。 それ故に彼を慕う者は多々居ると言うのに、何故相手がエルウィンなのか。 疑問が持ち上がらない訳では無い。 イメルダは優しい眼差しでバルガスを見つめて言った。 「あんたは未だ目にして無いから分からないかもしれないけど…エルウィンが傍らに居るとね、レオンはとても幸せそうに微笑むんだよ。あのレオンが、だよ?」 「エルウィンも、だよ」 ヘインが言葉を滑り込ませる。 「いつも張り詰めていたみたいだったエルウィンが、さ…。何気に振り返って…笑顔浮かべて。直ぐに慌てたように視線を元に戻すけど」 その、エルウィンの視線の先に在るのがレオンだと言わずとも分かる。 「余程…深い想いって奴なんだろうねぇ…」 「そうか…」 バルガスは短い嘆息を漏らすと、目を伏せた。 自分のことなど二の次で常に他者、それも弱き者を思い遣る事にのみ重きを置いてきたレオンの生真面目振りは好ましい反面、歯痒さをも感じていた。 少しは自分のことを考えても言い筈だと、常々バルガスは思っていたものだったのだ。 無論、それはバルガスに限ったことでは無い。 「…そんなに良い笑顔か…」 「腹立たしいくらいに、ね」 イメルダが苦笑混じりに応える。 思わず見惚れる程の笑顔を浮かべさせるのが男だと言う事実が一寸悔しい、と彼女は口許の端を歪めた。 「成る程」 バルガスは思わず失笑した。 美女の誉れ高いイメルダにすれば、確かに口惜しかろう。 「だけどねえ。だからこそ、見守りたいんだよ」 イメルダは呟いた。 誰よりも高潔なるレオンが、ずっと秘めて来た恋に波風なんて立てたくは無い。 立てるつもりも無い。 「その意見、わしにも異論は無いぞ」 バルガスがニッと笑う。 「おや…、あんたの事だからてっきり反対するかと思ったのだけど?」 「そんなつもりは毛頭も無い」 確かに異性で在ってくれる事が最も望ましいだろうが、こればかりは他人が介入すべきではない。 第一良く言うではないか。 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、と。 きっぱりと言い、豪胆に笑うバルガスを見遣りイメルダはうんうん、と頷いた。 誰も邪魔などしない。 二人の想いを。 だから見守ってやるのが一番良い。 出来れば応援などしてやりつつ。 当事者の与り知らぬところで、何時の間にやら話が完結してしまうのだった。 「杞憂に終わったみたいだな…。あくまで今の所はって奴だけど…」 村の周辺を探索し、付近に人の気配の感じ取れない事にエルウィンは安堵の呟きを漏らす。 「ああ」 その呟きにレオンも軽く息を吐き出した。 ライリム渓谷以降、引っ切りなしに足止めを繰り返して来た反帝国の軍勢も流石にその頂点に在るカルザスの王女シェリーの敗退に鳴りを潜めた、と言う所だろうか。 「そろそろ戻るか? 大分陽も落ちて来たし…」 幾らエルウィンでも、昼間の戦いで疲れていない訳は無いのだ。 疲労を隠しきれない声音が、それを物語っている。 こんな状況で、魔物なんぞと戦闘にでもなったら流石に大きなダメージを受ける可能性もあるだろうとの危惧が否めない。 「そうだ…な…」 振り返り応えたレオンの息が、不意に止まりそうになる。 沈みかけた陽の光に照らされた、エルウィンの真紅の髪が燃え盛る焔の如くに煌いている様に目を奪われた為に。 「どうした…?」 息が詰まりそうな感覚に陥っていたレオンの、突然硬直したかの様を訝しみエルウィンはその顔を覗き込む。 「レオン…?」 どうかしたのか。 問いかけようとしたが、適わなかった。 突然、平衡感覚が崩れた為だ。 その原因は今、エルウィンを抱き締めていた。 唐突すぎる程唐突に、レオンはエルウィンを抱き寄せ、そして。 「う…ん…ッ…」 唇が奪われた。 まるで貪るような荒々しい口づけに息が付けず、エルウィンの手がレオンを押しのけようともがくが、体勢が悪くて突き放すことが出来ない。 その間も、まるでエルウィンの感触を楽しむようにレオンの口づけは止まる気配を見せず、激しさは増す一方だった。 レオンを押しのけようともがいた腕が、次第に縋るように背に回る。 霞む意識は、息苦しさの為だけでは無くて。 身体中が痺れるような甘い感覚に支配されていこうとしている自身に僅かに戦いていた。 暫くして漸く解放されたにも拘わらず、エルウィンの腕はレオンに縋り付いたままだった。 「…こんなとこ、で…」 責めるように漏れ出るその喘ぐ吐息さえ、レオンには甘い。 鼓動が耳を打つようにがなり立て、気持ちが先走る。 懸命に乱れる呼吸を整えようとしているエルウィンの白い項が真紅の髪の狭間からチラリと見え隠れする様に、レオンは競り上がる欲求を持て余す。 「エルウィン…」 呼びかける声が、酷く掠れている。 「やだ…からな…、こんな所でなんて…」 見上げてくる眼差しは、本気で拒むものでは無い。 こんな所でさえなければ、との思いがあった。 その証拠に、アイスブルーの瞳は確かに熱を帯び潤んでいた。 エルウィンのそんな様が危うくて、レオンの意識のたがが外れかかる。 とても、このままではいられない。 性急な欲求をどう堪えればいいのか。 その感覚をレオンは懸命に押さえ付けようと努めるが、徒労に終ろうとしていた。 |
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