act.5

 虚ろな瞳を虚空に投げ捨て、先程からピクリとも反応しなくなったレディンをグレイヤードは退屈気に見下ろす。
 ランスへの嫌がらせに貪ったが、最初こそ盛大に抵抗した少年が途中から呻き声のひとつも上げなくなり、仕舞いには愉悦感が萎えてしまっていたのだ。
 心が崩壊してしまったかの如く無反応な王子に、退屈さが否めない。
「…存外詰まらなかったな…」
 低くグレイヤードが呟いたその時だった。
 遠くで何かが起きているような物々しさが彼の天幕にまで届いて来たのは。
「うん…?」
 何事だろうかと、立ち上がった瞬間。
 それまで微動だにしなかったレディンの睫がピクリと動き、次の瞬間、カッと真紅の瞳が見開かれる。
 寸前までの痛々しさなど微塵も感じさせない、溢れんばかりに漲る生気がレディンを覆い尽くして居た。
「何っ?!」
 突然傍らから放たれた強烈な気配にハッと振り返った刹那。
 紅蓮の焔のように熱く燃え、煌めくレディンの真紅の双眸を見るに至ったグレイヤードが息を飲む間も与えず、レディンは全身を武器に体当たりをかましたのだった。
「ぐッ 」
 如何にレディンとグレイヤードの体格差があろうと、想像もしなかったその行為をダルシス親衛隊副隊長は躱す事が出来ず、無様に倒れ伏す。
「愚か者が」
 例えどのような状態になろうと、決して最後まで諦めはしない。
 諦めてはならないのが、戦の常。
 ましてレディンはバルティア軍総大将だ。
 千載一遇の好機を逃す訳が無かった。
 思うがままに嬲られようと、貪られようと、最後の最後に相手が油断するのを待って居た。
 すぐに殺すか、殺さぬまでも決して動けぬように縛り上げて置かなかったのが貴様の迂闊さ。
 レディンの冷たい眼差しにゾクリと背筋を何かが這い上がり、硬直したグレイヤードは身じろぎ一つ出来なかった。
 その間に少年のしなやかな身体が軽やかに地を蹴り、傍らに立て掛けて在った己の剣が奪い取られる様を呆然と彼は見る事しか出来無かった。
「…それで、形勢逆転のつもりですか?」
 やっとのことで我に返ったグレイヤードも、隠して置いていたミドルソードを簡易ベッドの下から取り出し構える。
「それは、やってみないと解るまい?」
「そうかもしれませんね」
 互いに冷えた笑みを口元にこびりつかせ、決して敗れてはならない勝負にと突入しようとしていた。


首と胴体が奇麗に別れ、物言わぬ骸と化した仲間を唖然と見た兵が驚愕する。
「ひッ 」
 薄闇の中を駆け抜ける人影を、何者なのか見極めようと目を凝らした兵士は、松明に照らされた顔を見た瞬間恐怖に身を竦ませ唇を戦慄かせた。
「く、黒騎士!?」
「そんな馬鹿な!」
 仲間の怯えたような声音に、兵士が懐疑の怒声を放つ。
 未だ、彼が正真正銘帝国に弓引く存在になっているなど識らぬ一般兵たちは、どうして味方に向かって彼が剣を閃かせるのか理解出来なかった。
 そんな中でも、果敢に立ち向かおうとする者も居たが、それらは全てランスの前に辿り着くより先に、降り注ぐ炎を浴び屍を晒すに至った。
 ジェシカの詠唱で放たれたファイアボールの爆炎の威力である。
 その絶大な魔法から辛うじて逃れた幸運な者も、ナームの剣の露と消えていく。
「な、なんて奴らだ… 」
 化け物じみた攻撃力に、彼らは恐れをなして次第にじりじりと後退を余儀なくされて行くのだった。


 ギン、と鋭い金属同士の咬み合う音が、狭い天幕内部に鳴り響いた。
 レディンとグレイヤードが正面から激しくぶつかり合う音だ。
「チッ!」
 舌打ち、グレイヤードは剣の中央からボキリと折れたミドルソードの柄を投げ捨てる。
 勝負はレディンに分があったようだ。
 元より、グレイヤードとレディンの腕の差は歴然としていた。
 レディンが捕らわれたのは、単にグレイヤードの幸運に過ぎない。
 もしもあの時、レディンが動揺していなければ、此の場に彼が生きていられる保証はなかった。
 その証拠に。
 レディンの表情に侮蔑の色がまざまざと浮かび上がって居た。
「所詮はこの程度か? ダルシス帝国親衛隊副隊長殿」
 レディンの冷ややかな視線と口調に、グレイヤードが拳を強く握り締め唇を噛み締め身を震わす。
 怒りと屈辱のために。
 自分が敗北した事が信じられず、堪らなく口惜しかった。
「…こんな馬鹿な…」
 こんな事が有って良い訳が無い。
 ランスと力の差は無い筈なのに、何故自分は目前の少年に敗れるのか。
 不意に今更のように彼の脳裏をランスの言葉が過る。
『―レディンは並の司令塔では無い。それを踏まえねば―』
 敗北は必至。
 そう言いたかったに違いないと今更に理解する。
 ゾクリと背筋に冷たいものが流れ落ち、グレイヤードはバルティア王子の冷たい眼差しに射竦められた。
 そんな時だった。
 天幕の外から、魔法詠唱による爆音が響いたのは。
「何っ!?」
「どうやら来たようだな」
 愕然としているグレイヤードの耳が、レディンの低い呟きを聞き止めた。
「流石はジェシカ、遣るな」
 あの爆炎のスペルユーザーは、ジェシカに違いない。
 と言う事は、ナームとクリスも来て居るだろう。
 だが、それにしては手際が良すぎる。
 グレイヤードから視線を外す事なく、レディンは内心首を傾げた。
(…まさか…)
 一瞬、レディンの脳裏に浮かび上がったのは、決して己を助け出しに来るとは思えない存在の端正な面だった。
(…ランス…)
 そんな事は有り得ない。
 ランスが来る訳が無い。
 本心から求めたのに、それには応えてくれなかったあの男が、全てを捨ててまで己を助ける為に此処に赴くなど、決して。
(馬鹿だ…、俺は馬鹿だ…)
 なのに、心の片隅では、来てくれることを望んで居る自分がいる。
 それが情けなくて、不甲斐なくて。
 何より切なかった。
 またしても心に動揺が走り、レディンの剣の切っ先が僅かにだが震えた。
「 ? 」
 それまで威風堂々としていたレディンが、揺らいで居るのを目にしたグレイヤードは動く。
 奇しくも、レディンが絶望的な情況を打破する機会を狙っていた時のように、一瞬に賭けたのだった。
 左手が切れることも構わず、レディンから剣をもぎ取り今度は彼自身が体当たりをかます。
「くッ!」
 まさか自分と同じ手に出るなど思わなかったレディンは、絶妙のそのタイミングに天幕の入り口まで吹っ飛んだ。
 グレイヤードは奪い取った剣を構え、今度こそ勝利の笑みを面に乗せた。
「ここまで、ですね?」
 ニヤリとレディンへ冷笑を向けたその時だった。
「それは、どうかな」
 低く、鋭い声が放たれたのは。
 ハッと、レディンは振り返った。
 この声の主は、一体誰か。
「大丈夫か?」
 有り得ない筈の存在が、ゆっくりと全裸の少年に歩み寄ると、優しいとさえ見える微笑みを浮かべて屈み込んだ。
「ラン…ス、か…?」
 己の目が未だ信じられずに居るバルティア王子の身体が、大きな腕に包まれた。
 荒い呼吸音を間近に聞き取り、レディンの面から鋭さや険しさといったものが、消え失せた。
「本当にお前なのか? ランス」
「ああ、…ッ!」
 不意に、その存在の口調に厳しさが、レディンを抱きとめている腕に力が込められる。
 レディンの首筋、そして全身に散る激情の名残りを目にして。
「…グレイ、貴様…!」
 己のマントを外し手早くレディンを包むと、背後へとそっと押しやったランスの、その表情に殺気が灯る。
「大層、良いものだな? バルティア王子殿は」
 剣を構え、対面でランスの殺気を受け止め、グレイヤードがわざと煽るように口許を歪めて言葉を成す。
「許さぬ」
 決して許さぬ。
 ランスの声に怒気が迸り、壮絶なまでの気が立ち上ぼる。
「殺して遣る」
「それは、こちらの台詞だ!」
 グレイヤードが疾駆し、ランスに切りかかろうとするより一瞬早く、銀の髪の疾風が舞い込むとその剣を受け止めて居た。
「何をしている、黒騎士!」
 早く王子を連れて、脱出して。
 ナームがグレイヤードの剣を受け止めたままに振り向き、ランスを睨み据え怒鳴った。
「…了解した…」
 口惜しげに言葉を漏らし、ランスはレディンを抱き上げるとグレイヤードの天幕を後にする。
「このままで済むと思うな、ランスっ!」
 出て行くランスの後ろ姿へ、グレイヤードが咆哮した。
 ランスは一瞬歩を止め、
「次に出会ったら、必ず殺して遣る。忘れるな、グレイ」
 一字一句、心に言い聞かせるように言い置くと、今度こそ天幕を後にした。
 外は、屍の山に覆い尽くされていたが、多勢に無勢なのか、未だ大分の兵が天幕を取り囲んでいる。
「レディン様は、ご無事なの 」
 クリスの、悲鳴にもにた声音に、応えたのは当人だった。
「ああ、クリス、私は無事だ」
「良かった!」
 ホッと安堵の息を漏らした直後、少女は表情を変え、気丈に言い放った。
「黒騎士、後は頼むわ!」
 ランスが何かを言う前に、プリーストの少女は、敵の真っ只中に飛び込んで行く。
「…お前の傷を、癒して貰いたかったんだが…」
「馬鹿な事を言うな」
 ランスの呟きに、レディンが文句を返した。
 こんな様など、彼女にはとても見せられない。
 自分で癒す、だから敵の居ない場所にまで下がってくれ。
 レディンの呟きにランスは納得すると、前以て決めておいた合流ポイントに向かうため、彼の元に寄って来た愛馬に飛び乗った。
 道程途中、無駄な足掻きのダルシス兵の攻撃をあっさりと蹴散らし、後方に屍の海を築いたランスが漸く息を付いたのは、それから小一時間が過ぎたころであっただろうか。
 馬上から降りたレディンが、癒しの呪文を唱えている間も周囲の警戒を怠らず、ランスは気を配っていた。
「ランス」
 もう、大丈夫だ。
 レディンの声に、やっと警戒の意識を解き放ち、傍らに彼は歩み寄る。
「済まなかった」
「気にするな」
 穏やかに微笑むランスへ、レディンは項垂れ呟く。
「こんな形で…お前を…」
「俺自身が望んだ事だ」
 両の腕でレディンを抱き寄せ、その頬に口づけるとランスは囁く。
「それより、辛くは無かったか?」
「…少し、な…」
 言い淀む口振りから想像を絶する屈辱を感じ取り、ランスの眉が顰められた。
 滅多に泣き言など言わないバルティア王子の、その声音が震えていた。
 これ以上レディンのそんな呟きを聞くに耐えず、ランスは少年の顎を持ち上げ深く口づけた。
 絡む舌先を素直に受け入れ、己に縋り付くレディンが愛しかった。
「レディン」
 唇が離れ、吐息が漏れる。
 潤む真紅の瞳を覗き込みランスはその名を呼び、耳元に囁く。
「お前は…俺が…」
 抱き締める腕に力が込められる。
「ずっと、護って遣るよ」
 ランスの静かな告白に、レディンはハッと顔を上げ漆黒の瞳を見つめた。
 驚きに見開かれている真紅の瞳が、揺らめき、そして。
 次の瞬間、レディンは破顔した。
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